ふざけることを世の中から

 

無くしたらどうなるだろう?

 

ふと、思いついたこのテーマ。

 

あ、何回か書いてるか(笑)

 

 

失うだけでなく、無くしたら。

 

うしなう、のはいまの状況に近くて

 

不謹慎とか、正義の押し付けとか、

 

マジメニンゲンの幅寄せ感とか。

 

 

マジメなほう、マジメなほうに

 

全体が寄せていっている最中です、いま。

 

 

失うってのはちょっとだけまだ、

 

私たちにも残像がうっすらと見える程度

 

残っているものだと思うんです。

 

 

ふざけてた時間、思い出してください。

 

楽しかったでしょ?絶対そうですよ(笑)

 

 

無くしたらどうなる?

 

ちょっとコワイでしょ。

 

 

笑わなくなる、笑えなくなる、

 

挙げ句、笑う必要ある?

 

この流れになっていくでしょ。

 

 

ちょっとふざけただけ、ということが

 

0か100かで論じられることが多くなる。

 

 

「じょうだんやがな」

 

(滑舌ハッキリ、口を大きく開けて)

 

が通じなくなる。

 

「ひややかやな」

 

(同じく、でも寂し気に)

 

 

杓子定規な考え方だと、

 

ふざけること自体をしなくなるし、

 

させなくなる流れになるでしょ?

 

していくんですよ、ホントに。

 

 

ギッチギチのタイトなジーンズに

 

何をねじ込む?

 

ボアか。懐かしいなぁ。いやいや(笑)。

 

 

ふざけることで、緊張をほぐす、解放する。

 

結果として見えにくいけど

 

人間には見えない効果も必要ですよね。

 

 

むしろ、数字に現れないことのほうが

 

これからますます、重要になってくる。

 

 

だからこそ何があっても簡単には、

 

そこまで奪っちゃダメな気がする。

 

ダメとなったら日本人は徹底的に

 

排除する心理をかつぎ出すから。

 

 

「やりすぎ君」になってしまい、

 

ケースバイケースでの柔軟性を失う。

 

誰の声も聴けなくなってしまう。

 

 

失うということは、まだ無くしていない。

 

だからまだ取り戻せるはずです。

 

 

ふざけて、笑って、

 

ハメ外し気味が面白くて。

 

これって日常のひとコマ。

 

仲間内のひとコマ。

 

でも誰でも見られるように

 

しちゃったからなんだろうな。

 

 

なんでお前が入ってくるんだ?

 

っていうね。

 

ふざけている側にしたら

 

そんな気持ちもあるでしょう。

 

 

でも仲間内のふざけ合いも、どこかで

 

「誰かに見てほしい」(かもしれない)って

 

そういうちょっとした気持ちも

 

あるでしょうね。

 

 

ふざけている自分と、それを笑う仲間と

 

その空間が楽しいのに

 

「誰かにも」見せたい。

 

欲張りといっちゃあ、欲張りなんだけど。

 

 

見せちゃうから門外漢が入ってきて、

 

空気読めないことをされてしまう。

 

 

仲間内のクローズドな空間でやってろよ、

 

そういうけど、そこは許してやってよ。

 

ある程度泳がすところ泳がさないと、

 

のちのち自分も苦しくなるんだよって。

 

 

でも、門外漢も空気読めないことをするのが

 

楽しくて、やって来るフシも絶対ある(笑)

 

 

結果、みんなどっちもさみしいんだけど、

 

なんだか、まったくの他人同士が、

 

うまく溶け込めないような時代で

 

孤立を深めていることの裏返しみたいな。

 

奥底の心の置きどころの無さがみえる。

 

 

わかるかな、伝わるかわからないけど(笑)

 

このネット上の感覚を知らず知らずのうちに

 

リアルな対面関係にも落とし込んでる。

 

 

かまってほしいに近い感覚の気持ちがあって

 

本人は、かまってほしいのを認めたくない。

 

でも心の奥の素直な感情では

 

誰かと関わりたい。

 

 

他人同士のコミュニケーションがちょっと、

 

上手くなくなっているというか、

 

そういう機会が

 

対面でも減ってるからだろうなぁ。

 

 

愉快なことでも、なんか

 

気に食わないだろうし、

 

不愉快だと、責めたてることで

 

溜飲を下げてるような。

 

 

社会の孤立感を極力、

 

感じないようにしたい。

 

 

でも社会は表面上の言葉が飛び交い、

 

うまく互いが溶け込みあうような関係を

 

避けるようにお互いに否定して

 

ガードしてしまう。

 

 

結果として、弱みを見せるのを

 

恥ずかしいと感じ、相手からも

 

かまってちゃんに仕立て上げられてしまう。

 

 

社会全体のギスギス感の解消を

 

無意識にしたいんだろうな。

 

根っこの部分はきっと、みんな意味もなく

 

集まるところに、寄り道して

 

にぎわいを味わいたい。

 

 

いっそのこと、逆に

 

仲良くしちゃったらいい。

 

意外と仲良くしようと

 

しなくなってますよね。

 

お互いが構えて、

 

ファイティングポーズとるから。

 

 

仲良くしようというスタンスで

 

お互いに入れば、ちょっと変わると思う。

 

 

変な遠慮や警戒心、マナー、

 

いろんな感情が交錯して

 

最初っから敵対関係で対峙してしまうから。

 

いくらネット上とはいえ、ちょっとね。

 

 

だからアレですよ、アカの他人の集まりに

 

フランクに入っていける人が

 

以前よりも少なくなってる。

 

 

なんでもない聞き役からスッと

 

仲間内に入っていくような

 

そんな体験をしてこない人が

 

増えているのかも。

 

 

これを対面で経験していない人も

 

多くなってるし、

 

ネット上だから警戒心も高くなるし。

 

ネットと対面の境い目がわからなくなる。

 

 

自分本位の見方が不思議と強くなるし、

 

違う意見に対しても

 

自分のフィルター越しで見てしまう。

 

 

これが対面の場合、どうだろうか。

 

たとえば4~5人の集まりに、

 

知らない人が話に入っていこうとするときを

 

想像してほしい。

 

 

相手を否定して入っていこうとすると

 

誰も受け入れない。当たり前ですよね。

 

むかし、対面でのコミュニケーションが

 

当たり前の時代を生きていた人たちは、

 

そのへんの話しかけ方がうまくて。

 

 

笑顔で朗らかに、入ってくる感じだった。

 

そのうち共感するような話をバランスよく

 

放り込んできて、いつのまにか

 

楽しげに話している(笑)

 

いましたよね、そういう人。

 

 

それが年々、知らない人と話をしなくなり

 

リスクを避けるというか怖がって

 

気軽に話しかけ合う雰囲気を失った。

 

 

外国人によくいる陽気な話しかけで、

 

意気投合みたいなそういう機会が

 

無くなっていったんですよね。

 

 

たぶん弱みをみせたくないとか、

 

関わらないほうがリスクがないとか。

 

いろんな守りの感情を強くして、

 

ガードを固く、高くしてしまって。

 

 

大人数でいても孤立感が高まってしまう。

 

そういう社会の問題点の象徴のような。

 

 

うまくコミュニケーションしようと

 

することとも、ちょっと違うんですよね。

 

 

たぶん、お互いにミスしても許して

 

助け合う、補い合うような。

 

負のイメージでない、負い目のない関係。

 

 

ポイントはそこかもしれないなと

 

感じてしまいますね。

 

 

ふざける距離感を取り戻せたら。

 

負い目のない関係を取り戻せたら。

 

もう少し社会はやわらかくなる。