人が人を慕うこと。
なんかJTみたいな言い方(笑)
渡哲也さんが亡くなったそうだが
彼は石原裕次郎さんを慕い、
その思いを知る舘ひろしさんは、
渡哲也さんを慕う。
今回思ったのは誰かを慕う気持ち、
感情の連鎖について書こうかなと。
慕う気持ちというのはその相手が、
生前のときよりも亡くなった後のほうが
より強く感じるものだろう。
逆らえないとかという感情を超えた、
あまり使うのは好きではないが、
キズナみたいな感覚なんだろう。
最初は、良くしてもらったことへの
恩義のようでも時を経るごとに
深みが出て沁みるようなイメージ。
自分がしてもらったから、
今度は自分が次へつなぐ。
下の世代にその気持ちを
できる限り伝えたい。
完全な継承は無理だとしても
いつの日か、わかってくれたら
うれしいかな、みたいな感覚で。
人の意思、思いを私たちはどれだけ
次の世代に伝えているだろうか。
時代が進むに連れて私たちは、
先人の思いをくみ取れなくなって
大事な気持ちをないがしろにしていたり、
わかるところまで深く考えなくなった。
おそらく「自分」が先に立つから。
そして便利になり、解明されてくると
数字や目に見える結果しか信じなくなる。
悪いことではないのだが、
自分が先に立つと大事な局面でも
数字やデータが先に頭を支配して
自分のことを優先しがちになってしまう。
本来気づくべき感覚まで捨てている。
かなり、衰えさせてしまっている。
いつの日か気づいてほしいと、
次の世代に託した思いがある。
確実にあると思っている。
しかし、私たちは忘れやすい。
お盆は奇しくも先人に思いをはせる機会。
ワタクシ自身も思う。
亡くなった祖父や祖母は
どんな思いを伝えたかったのかと。
明治生まれの祖父と大正生まれの祖母。
祖父には可愛がられた記憶。
祖母には叱られた記憶。
年々かすかに薄れゆくその記憶。
若い時分の祖父母たちの人生が
当然、あったわけで。
本人たちがどんな思いを
抱いていたのかを想像もしなくなった。
実はホントのところどんな人だったのか。
ワタクシまで届いていない、
記憶していない思いはあったのではないか?
どこかの世代で止まっている思いはないか。
お盆になると親戚が集う。
今年はコロナ禍で、ままならないが
年々、年老いていく親戚に機会があれば
ちょっとだけ話したくないことも
あるだろうけど、聞いてみるのもいい。
その親戚の人たちだけが知る、
父や母、祖父や祖母の姿があるかもしれない。
「慕う」とは、やっぱり人生の「幕」を
下ろしてから幕の中に隠された
「巾」が「心」に変わるのだろうか(笑)。
なんとなく思いついたが、
人生の幕を下ろした人を思うことで
心に宿すように変わっていくのかな。
私たち現代人も現実の目の前の
熱に反応してばかりいるが、
過去の出来事や人、思いを振り返り
気づいていかなきゃならないことが
あるのではないだろうか。
少なくともいまの私たちが
気づかなければ、次の世代に
慕う連鎖は、その思いは
つながっていかないのではないか。