感染症や自然災害など抗えない問題が

 

社会に蔓延し始めるとき、

 

私たちの大半はそれほど免疫がないため

 

混乱が大きくなってしまう。

 

 

これは免疫力という問題ではなくて、

 

各個人の経験値、という意味での免疫。

 

 

過去の自分の記事、2月初め頃からのものを

 

ちょっと読み返してみました。

 

 

初動のまずさと、いまでは当たり前の姿勢が

 

当時はまだ無頓着な雰囲気だったのがわかる。

 

 

やっぱり、全体が気づいて、意識させて促して

 

当たり前にするには最低、数か月かかるんだと。

 

 

初めてのことに対処するときには

 

どうしたって人間は、戸惑うことが多い。

 

ミスもするだろうし、失敗もするはずだ。

 

 

あれもこれもやらなきゃいけない、

 

守らなければいけないと、

 

のたまう輩もあらわれる。

 

 

彼らの主張をすべて飲み込んだとしても

 

必ずしもうまくいかない可能性が高い。

 

 

あっちを立てれば、こっちが立たずが

 

確実に顕在化してくるからだと思う。

 

 

そうやって各自が主張を

 

激しくエスカレートさせていく。

 

 

社会全体でなんとなく不確かなまま

 

得体の知れないストレスを

 

自ら抱え込むように負荷をかけ続けていく。

 

 

両手が塞がったままの私に

 

この荷物も持って、と渡しに来る。

 

 

なんなら、着ている上着の首のところを

 

ペロッとめくり、断りも無しに

 

勝手にタグにフックつけて引っ掛けてくる。

 

こっちの都合や時間、いっさい関係なしに。

 

 

こちらは思いもよらない荷物に

 

首を持っていかれそうになる。

 

なんだかやっぱり、せつなくなる。

 

 

自然災害にしてもいまはまだ、

 

どちらかというとヒトケの少ない

 

山間部の集落や川沿い付近だ。

 

 

まだ、人口が集中する都市部では

 

大きな被害がないから実感がない。

 

ちょうど、遠くで起きる津波のような。

 

 

自分たちのところに来ないならば、

 

考えようとはしないのが

 

私たち人間のリアルである。

 

(出川っぽく巻き舌でリアル)

 

 

コロナの2月と4月の意識の差、

 

遅れて時間差でくる感じと似ている。

 

 

コロナに神経をすり減らし、

 

災害を毎日各種報道で目の当たりにする。

 

私たちはどんな気分になるだろう。

 

 

心が晴れることはもう一生無いかのような

 

不安という雲に覆われてしまっている。

 

 

お年寄りは複雑な気持ちだろう。

 

人間が経済成長の名目で

 

切り裂いた自然にいま、

 

しっぺ返しを食らっているのを、

 

どんな目で見ているのだろうか。

 

 

容易に止まれない私たちは、

 

枯渇しようと未来に影響があろうと、

 

「人間的な自然」にも反するように

 

経済活動を止められないのだから。

 

 

人間的な自然、はニュアンスで(笑)

 

 

怪しく黒ずんだ雲を見上げながら、

 

竜巻やゲリラ豪雨に見舞われながらも

 

我がフリを直す素振りさえ見せない。

 

 

思えば、こんなになるまで

 

私たちは見て見ぬふりをずっと

 

決め込んでいたから自業自得だろう。

 

 

平和な日常、快適な生活を手に入れ

 

少し天狗になっていたのかもしれない。

 

 

しかし起こってしまったことを悔いていても

 

何も進まない部分もあるのはたしか。

 

 

クラスターがポツポツと発生しているいま、

 

第二波が拡大しかけているいま何をすべきか。

 

 

経済活動と感染予防という二律背反的な板挟み。

 

経済を止めれば、安心や安全が束の間、手に入る。

 

経済を止めれば、生活が困窮していく人が多くなる。

 

 

おそらく未来のために何らかのガマンを強いる、

 

これは簡単に実現しそうにないこと。

 

 

現代人でなくても、利便性を手放し

 

現状維持を当たり前の初期設定にしてしまう、

 

その心理は時代を超えて変わらない。

 

 

一度、耐えてくれとガマンさせた人間に

 

もういいよと告げて、またガマンさせると

 

どうなるだろう?想像したことがあるだろうか。

 

 

おそらく人間は、最初のガマンよりしんどくなる。

 

緩んだゴムをまた引き締めなおすのは困難だ。

 

 

最初はうっすらとしょうがねぇな、ガマンするか。

 

解除でよし、ようやくだ。元に戻すべくがんばるか!

 

また緊急事態宣言、自粛・・・またか、またガマンか。

 

 

この「また」「もう一度」がツライのだと思う。

 

 

真剣さがまだ足りなかった時期を経て、

 

真剣に向き合ってガマンして峠を越えた。

 

そして再開、この時点でホントは終わりじゃない。

 

 

けど、終わりにしたかのようにしたい心理を

 

心のどこかに私たちは持ってしまっている。

 

 

まして、コロナ慣れしてしまった私たち。

 

感染予防も当たり前を超えてしばらくすると

 

少しホコロビが出始めていく時期に来ている。

 

 

予防対策をしているだけで安心してしまう。

 

しかしどうだろう、あらためてわかったのは

 

人が集まれば、いくら予防対策を施しても

 

感染する可能性は否定できないということでは?

 

 

淘汰を仕方なく受け入れ、犠牲やむなしと

 

全体の経済活動を起動させつつ進むのか、

 

誰一人死なせないと意気込んで扉を閉めて

 

未来への扉を閉ざすのかは、難しい判断だろう。

 

 

ワタクシは個人的には前者にすべきだと思う。

 

 

全員を救おうとして、全員が沈むことは

 

お年寄り世代は望んでいないと思うから。

 

 

たしかに苦しみながら死ぬのは怖い。

 

その年齢になってみないとわからない

 

怖さもあるだろうと推測する。

 

 

しかし、未来の扉を閉ざしながら、

 

子や孫の行く末を案じて何もできない、

 

自分たちの存在が逆に迷惑をかけてしまう

 

と考えてしまう人も多いのかもしれない。

 

 

それはもっと怖いし、我が子や孫の

 

未来のシアワセを我が身のことよりも

 

切に願うであろうお年寄りにとっては

 

最もツライことなのではないだろうか。