学生たちのために世間全体が
スポーツを中心として代わりになる
イベント等を考えてあげる流れ。
これね、いいんですけど、
なんでも願いを叶えてあげるのは
それはそれで、違うかなぁとも思う。
最近はできるようになったことによって、
なんでも叶う環境に、すぐ補填してしまう。
すぐ元に戻すことが日常化しているから。
「〇〇が無い日常」の経験値が上がらず、
育っていかない環境なんです。
無きゃ無いなりになんとかしなきゃならない、
打開しなきゃならないってときに、
これからの人生でたくさん出くわしますから。
これはねぇ、なかなか認める人が少ないと
思うんですけどもね。
やってあげられるなら、やってあげる「べき」
となってしまうのですよ。
正しいでしょ?そうなんです、だから厄介。
当然ながら周囲の手助けの量が増えてしまう、
あるいは作業負担、工程が増える。
ひとりの作業量、情報量、サービス量が
増えていく原因になっているんですよ。
やってあげるべきだ、べきなんだ・・・
これはなぜか義務になってしまうんです(笑)
平成以降の世の中では特に顕著になった。
妙に「やること」増えてしまったでしょ?(笑)
学生のスポーツや活動や行事。
それはその頃の年代には、非常に大事な思い出。
何物にも代えがたい、このために生きている、
そのくらいのイレコミは、わかります。
ワタクシ自身の記憶をたどっても否定できない。
でもね、人間って前例をつくるとその基準を
最低ラインに設定してしまいがちなんですよ。
未来を担う大切な子どもたちなのはわかる。
しかし、極力、彼らに負荷やストレスを
かけようとせずに、やらせてあげたいとなると
周囲のオトナたちがそれを支える負荷を担う。
この、あれもこれもの苦しさを
私たちは、どこまで受け入れるべきか。
やってあげなきゃ、やってあげたい・・・
本当にみんなが、そう思っているだろうか?
親世代や大人世代がコントロールしがちだが
彼ら子どもたち自身が、舞台を自分たちで考えて
再設定するように自主的に動くことも重要だ。
今回のようなコロナ禍による経験というのは、
滅多に遭遇しない経験で、想定外への対処能力を
自ら経験して打開したり、マイナスの経験値を
積んでおくことでその心理的ストレスを
「抗体」として持てる機会なのではないか?
なんでもかんでもやってあげられないとき、
この「抗体」を持っている人と持っていない人。
大きな差が出てくると思いませんか?
日本人が新型コロナの抗体持ってる人が少ない
というのもなにか、妙に納得してしまう(笑)
丁寧にわかりやすく、周囲が手助けすることは
正しいのかもしれない、美しいことかもしれない。
すぐ除菌、消臭、殺菌とすべて危険を排除する。
その日常に慣れすぎて免疫力が低下していくばかり。
しかし、この「抗体」を得られなかった子どもたちが
これからの人生で、「第二波」に出くわしたとき。
誰も助けてくれないときに、自分で立ち上がれるか。
そこが勝負どころ、分かれ目になってくるんです。
そういう視点で考えてみると、人間は
なんでもかんでも守ってあげたり、排除したり
手を貸し続けることがいいことだとは
思えないんですよね。
私たちにはいま、あらゆる意味での
「抗体」が必要であり、得られなければ
「後退」することが確実なんですから。
最後は、オッサンど真ん中のダジャレで・・・