小さかったころの話。

 

外で友達と遊んでいた。

 

何かの拍子で

 

友達が、どこかにぶつかって

 

痛がって泣いた。

 

 

それを慰めようとしたのか、

 

小さなボクは

 

なんでかは知らないが、

 

同じ箇所を自分でぶつけてみせて

 

痛がりながらも、

 

「ほら、痛くないよ。大丈夫だって。」

 

(だから泣かないで)っていう、

 

いま思うと意味のわからない行動を

 

していたことを、ふと思い出した。

 

 

長いでしょ(笑)、前置きが。

 

ええ、そういうヤツです(笑)

 

 

アレはなんだったのだろう。

 

かなり遠い遠い記憶。

 

その奇妙な行為だけが鮮やかだ。

 

 

痛みを分かち合おうという気持ちは

 

おそらくない、というか

 

そこまでわかっていなかったはず。

 

妙な同調圧力の一種だったのか?

 

 

友達が泣いている。

 

泣いているのを

 

なんとかして慰めたくて

 

痛くなんかないよ、大丈夫だよ。

 

そんなメッセージを伝えたかった。

 

 

助けてあげたい気持ちがそうさせた。

 

あの行動はいま思うと、

 

いや、大人になると

 

なんだか不自然に感じてしまう。

 

 

助けてあげたい、が

 

うまく出来なくなった。

 

 

下を向いてしまう。

 

あるいは横を見てしまう。

 

 

子どものときは友達だからとか

 

関係なく親切にしようと学んだ。

 

どこにしまい込んでしまったのか。

 

 

大人になるとは、その不自然さを

 

捨てることなんだろうかとも思う。

 

 

こういう出来事に限らず、

 

手を差し伸べてあげること自体が、

 

相手の弱みを「知ってしまう」からか。

 

 

大人特有の、見せたくない失態を

 

こちらから手を差し伸べることで

 

傷つけてしまうのでは?という

 

遠慮がちなやさしさだろうか。

 

 

もしくは、自分がされたらイヤなことを

 

相手にしちゃいけないという

 

道徳的な意識の延長上なのか。

 

 

弱みを知ってしまったからこそ、

 

それ以降の関係で

 

ややこしくなることへの

 

懸念があっての回避だろうか。

 

 

なんだか、気づいているのに

 

困っている人を助けなくなる。

 

 

大人になった皆さんも

 

そう感じることはないですか?

 

あるでしょう、ワタクシもある(笑)

 

 

ほんとは気づいているのに。

 

ほんとは拾ってあげるのに。

 

ほんとは譲ってあげるのに。

 

 

子供の頃にどこかで教わった

 

人を助けるというシンプルな行動。

 

 

大人になるとなんだか不自然なほど

 

干渉しないのが当たり前みたいな。

 

 

これだと子どもの不自然と

 

大人の不自然がごっちゃになるか(笑)

 

でもそれぐらいわけわからない・・・

 

 

世間の大人の振る舞いを

 

考えもせず真似ているだけで、

 

私たちも大人になったと

 

勘違いしているのかもしれない。

 

 

みんながやらないからやらない、

 

そんな風潮に乗っかりながら、

 

厄介事を回避するみたいな感覚。

 

 

外国人が私たちに抱く

 

日本人は親切だ、という

 

パブリックイメージもそう。

 

実は、正しくないんですよ。

 

 

他人の目があって

 

一度きりの出来事だから

 

その後、付き合いがないことが

 

わかっているから。

 

だから、親切にする。

 

 

外国人が日本に来て、

 

知らない自分たちに、

 

やさしくしてくれる

 

日本人は素晴らしいってなる。

 

 

けど・・・

 

ホントのところ、違うよね?(笑)

 

 

親切にする自分を演じている部分もあるし、

 

二度と関わることがないだろうから、

 

親切にできるのではないか?

 

 

その親切心があるのに

 

なんで日本人同士だと出来ないのか?

 

外国人からみたら、そう映るかもしれない。

 

 

おそらく社会性を真似事で演じて

 

やり過ごすようになった私たちは、

 

ココがヘンダヨ日本人的な問題を、

 

解決しようとしていないんです。

 

 

誰かの監視の目が動画やSNSによって

 

ますます厳しくなる昨今。

 

私たちは、いま以上それ以上、

 

互いに、愛されなくなってゆく。

 

 

どこかでやめるべき時期にきているし、

 

やめなければもっとひどくなるばかり。

 

 

こころのゆたかさをなんて、

 

軽々しく言うだけでは解決しないのは

 

ずいぶん前からわかっている。

 

それでもその手は、スマホを離さない。

 

 

おそらく捨てないと、

 

人はゆたかにはならない。

 

スマホだけでなく、

 

こころの中に巣食う、

 

得体の知れない何かをも。

 

 

抱えることが、持っていることが

 

ゆたかな時代の象徴なのだろう。

 

 

だが、意識的に切り捨てないかぎり、

 

私たちはいつまでも足踏みし続け、

 

地団駄を踏み続けていくのだろう。

 

 

考えよう、もう少し。

 

横を見ながら大人になった背中を

 

子供に見せても良いのかを。

 

 

説明できずにやり過ごす背中を

 

未来は許してくれるのだろうか。