ワタクシはお笑い芸人は
特別であっていいと考えてます。
えこひいき、モロですが(笑)
人を笑わせる役割と才能ってね、
そう易々と手に入れられるわけではない。
笑わせることって難しいですよね。
知識やお金で他人を制するよりも、
一瞬で人を、笑いひとつで
味方につけられるんです。
知識やお金で勝ちえた優位性だと
気持ち的にどうしても、
味方になれないでしょ?(笑)
マウンティングする気持ちがなくても、
受け取る側がそういう雰囲気で受け取る。
頭いいやつが、金あるやつが
いい気になりやがって、と。
味方してるようにみえても、
心を許したわけではないから、
すぐ離れていくんでしょうね。
金の切れ目が縁の切れ目っていうでしょ。
でも笑いで人と人がつながると、
これがまた、切れないもんなんですよ。
もちろんバカにする笑いも茶化す笑いも
差別的な笑いもすべてまるごと含めて。
全部受け入れながら、許せる。許します。
やいのやいのいう双方ともに
結局、同じようなことを
互いにしているんですから。
どっちも責めずに踏み込まないのが
正解だと思うんです、ほんとに。
ハンドルのあそびのような部分。
少し余裕を持たせて、
互いに許し合わないと
息苦しさばかりが増すんですよ。
ケンカが強い人より、
勉強ができる人より、
経済力がある人より、
笑わせるオモシロイ人。
最強でしょ?(笑)
子どもの頃思い出せば、
わかりますよね?
なぜ彼らに人が集まりたくなるかを。
笑いひとつ。簡単なようで簡単でない。
どんなに欠けた部分があっても、
ワタクシは許したくなる。
それだけの稀有な存在だと思うから。
そして彼らにはその才能を思うまま
咲かせてほしいと思っています。
私たち視聴者がこうしてくれと
誘導するたぐいのものではない。
いまはなぜか誘導されつつある。
かなり危険なことだと、まだ気づかずに。
コッチが操作しちゃダメになるんです。
社会全体がマヒしかかっています。
なんでもかんでも権利があるからと
杓子定規にやるとバランスが壊れる。
オッカムーラサンのラジオ。
先日のも、冒頭だけ聴きました。
言葉を選びながら、テンポのない
楽しさの欠片もない、抑揚のなさ。
間違えないようにと、気を遣いながら。
あれは、聴いているほうがツライ(笑)。
もともと病んで、パッカーンした人。
あまりに責めるのもちょっと違う。
批判はどこかしらで、やっぱり
目や耳にしてしまうんでしょうね。
悩み、迷いながら自分を責める。
そもそも、人間の喜怒哀楽。
笑いはどこに入ると思いますか?
ワタクシは実は、全部じゃないか
と考えてるんです。
すべてが笑いの要素になっていて、
すべてが笑いでもって変化する。
笑いは、喜びや楽しさを増幅させる。
笑いは、怒りや哀しみを和らげてくれる。
上げる効果と、下げる効果。
つまり、喜怒哀楽から笑いを奪うと
喜びや楽しさは同じ繰り返しで飽きる。
怒りや哀しみは、おさまらないまま。
人間、マジメなやつばっかりだと
苦しくなってく。
ここで笑うんだ、という
制限幅を設けてもダメでしょ?
飽きてしまうんです、同じパターンでは。
笑えなくなってしまうんです。
オッカムーラサンは性格的にも
ちょっと難があるんでしょう。
でも、自分のチカラを最大限発揮して
人を笑わせて成功した努力のカタマリな人。
聴いているリスナーを分別はできない。
でも熱心に聴いていた人は、
彼がいろいろ難がある人だと知ってる。
それもひっくるめて好きなんでしょうから。
矢部の登場もどこか「めちゃイケ的劇場」で
めちゃイケでよく観た構図というか、演出というか。
ドキュメンタリータッチのお笑いのテイスト。
若干、入ってますよね。それでもいい。
メンタル的に「マイナーな側」にいる人が、
どこか彼に自分を重ね合わせていて、
彼を応援してるようで
自分自身も応援されてる。
確認しつつ、自分に馴染ませるような、
そういう感覚もあるのではないか。
そこに言葉狩りのように横ヤリ入れて
ジャロってくるのはいかがなものか。
ジャロってくる行為とは、いわずもがな
あのCMそのままの行為を指します(笑)
正しいから正しくするんだ。
逃げ道なんか必要ない。
そう思う人が増えてきているのかもしれない。
ココロは、文字通り横からつつくと、
→コ→コ→ロって具合に
最後は閉じてしまうんです。
よう思いついた!(笑)
私たちの祖先も同じように
過去に失敗したんだと思いますよ。
正しくやるだけじゃダメなことに気づいた。
すべてのバランスを視野に入れず、
すべて正しい方向にもっていくと
歪んでしまうんだと。
自然の摂理というか、
うまく善と悪が同居して
バランスをとるというか。
私たち現代人も、いろんな願いが叶うけど
叶わないことを小脇に抱えて生きるくらいで
ちょうどバランスとれるんじゃないかな?