私たちは思わずやってしまった、

 

というオコナイが多々あると思う。

 

何も考えずにやってしまうこと。

 

 

習慣づいてしまっていて、

 

いつもどおりにやってしまうと

 

反感を買うことがある。

 

 

なにも考えていないかといったら、

 

そうでもないことが多い。

 

それなりに考えてはいるけれど、

 

すべてに気をつかい、すべてに注意深く、

 

失敗をしないオコナイを重ね続ける。

 

 

これはね、ムリなんですよ。

 

 

でね、いまこういう時期だからこそ、

 

ちゃんとやれよ、的な空気感が覆っていく。

 

 

ちゃんとやる気持ちはあるけれど、

 

ほんの些細なミスも許さない姿勢で

 

失敗をみつけては、糾弾する。

 

 

すんごい、普段より怒ってないですか?

 

普段なら怒らなくてもいいことにまでも。

 

 

ちゃんとやってほしいのも事実、そう思う。

 

しかしちゃんとやれないことを責める空気を

 

出し続けていくと、雰囲気悪~くなってく。

 

知らないうちに人を押し続けている。

 

正論の怖さに逆に気づきますよね。

 

 

ちゃんとやらなきゃ

 

というストレスがかかり、

 

精神的に追い込まれていく状況も生まれる。

 

ずっと、後ろから前から、横から

 

何かに押されてるからね。

 

 

ワタクシは一切やっていないし、

 

見てもいないツイッター。

 

ツイッター発で伝わってくるのは

 

そんな空気感。

 

 

「批判行為」と「反応行為」は別だと思う。

 

批判は強めのアクション。「オイッ!」

 

反応は弱めのアクション。「ぉぃ・・・」

 

 

ただ単に反応した行為でも

 

批判と相手には聞こえることもあるし、

 

メディアがそれを取り上げ、加勢していく。

 

 

すると反応が批判に拡大して、強くなる。

 

不特定多数に知らせるという大義名分。

 

しかし、ここもヘイジとは逆の発想が必要。

 

まだ気づかないんでしょうね、

 

その使命感が逆に混乱を招いていることを。

 

 

ますます、失敗が怖くなっていく社会。

 

失敗を恐れるなっ!ってよく言うけど、

 

よく言うよなぁって思う(笑)

 

 

失敗しないことしか賞賛しないでしょ?

 

失敗を叩くだけ叩いて、

 

這い上がってきた成功だけを賞賛する。

 

見直したとか言って。

 

クリアな上澄みだけをすくいあげる。

 

 

見直したってのは、見る眼がなかった証拠。

 

最初の叩きの痛みは相殺されない。

 

叩かずに、見守るガマンができなかった、

 

自分を責めることは誰もしないのだから。

 

 

人間、責めてるときは気持ちが大きくなる。

 

追い込まれていく人の気持ちになれずに

 

批判して、解消している人が多いんです。

 

 

平時ならば、ミスしてもそこまで

 

強く批判されないことも、

 

非・平時においては批判が強くなるし、

 

周囲も批判に加勢していく流れができる。

 

 

それなりの発言力ある人物たちのツイート。

 

一般市民が加勢し、追い打ちで

 

メディアが加勢する。

 

当の本人は疲弊してしまう、

 

非・平時に疲弊してしまう。

 

 

ツイッターは止まらないでしょうから。

 

この拡大をさせてる大手メディアがカギ。

 

大手メディアが拡散させなければね。