他人でも、他国でもいいんですが

 

自分(たち)よりも悪い状況にある、

 

そう感じたときに、どう解釈するのか。

 

 

A 自分(たち)はまだ大丈夫だ、安心したな。

 

B 自分(たち)にも起こりうることだ、油断しないぞ。

 

 

緊張の糸と、緊張の意図。

 

実際、みんな私たちは絡まってますよね。

 

縦の糸と横の糸みたいに

 

織りなす布でもなく、織りなす社会。

 

 

文末にくる「安心したな」と「油断しないぞ」

 

っていうのはあえて書きましたけど、

 

そういう気持ちの作用があるはずです。

 

 

Aのほうは(まだ大丈夫だ、安心)

 

まだいいほうなんだなぁ、よかった~。

 

ってのは気持ちが、ちょっと緩みがちです。

 

 

ちょっとくらいなら大丈夫だよね・・・

 

ってみんなが思ったらどうします?

 

同じでしょ?ちょっとじゃないでしょ(笑)

 

ちょうど3月20日前後の3連休のイメージ。

 

 

緩めたくなる情報の受け止め方をしてしまった。

 

最初の緊張の糸が持続しなくなり始めた時期で、

 

3連休という甘い誘惑が天秤にかけられて。

 

 

そして、いつもどおりにしたい欲求が強く強く

 

持ち上がって、おさえるストレスすらも

 

日々の生活のなかで負担になってきていた時期。

 

 

油断して解放された気分になったら

 

緊張の糸が切れてしまった。

 

久々に風呂に入れたような感じで。

 

 

そのすきをウイルスは逃さない。

 

みえない糸なのですぐ切れてしまうし、

 

切れてしまっても気づけない、緊張の糸。

 

 

そしてアレ?やばいかもしれないぞ・・・

 

と感じて、再三の丁寧口調での自粛要請。

 

緊急時にまでサービス意識と低姿勢。

 

混乱しないようにとの配慮なんでしょうけど。

 

そりゃ響きませんよと。

 

 

ふだん怒らない人が怒るべき姿勢をとるべき。

 

そのギャップによって真剣に受け止める。

 

これがちゃんとスイッチになるんです。

 

 

怒りなれていない人が、うまくまとめられない。

 

やっぱこういうときは、国や行政にも大衆にも

 

「ジャイアン」が欲しくなります(笑)

 

 

借金増えてでも補償する、外出すんなと。

 

広まるリスクのほうが損失が大きいんだと。

 

ちゃんとやるから、必ずやるからと

 

明確に打ち出せばよかった。

 

これだけで各自の行動に制限がかかったはず。

 

 

国民性を考えれば、他国より効果が大きいし、

 

その性質を逆に利用するくらいの大胆さが

 

局面を打開する場合には必要だから。

 

 

出すか出さないか、はっきりしないと

 

店開くしかないでしょう。

 

開いているから、行くんですよ。

 

 

やる前から後始末ばかりを気にかけている。

 

必要な決断と協力姿勢がかみ合わない。

 

それじゃ逆効果だとわからないのか。

 

 

非常時は通常の考え方を反転させたり、

 

逆算して考えてみたりすることによって、

 

見えなかったことに気づくんです。

 

 

地震が起こって津波が来てるのに、

 

法律できるまで待ってって言えますか?

 

まず何を優先して、何をすべきかわかってるのに

 

ルール上決まってからでないとやれないと

 

手を止めてしまう。そのくりかえし。

 

 

そして人はリアクションの受け身の姿勢を崩さない。

 

自分で考えようとしなくていい、システムの一部に

 

自分からスポッとハマって抜け出ない習性をもつ。

 

 

これまでも似たようなシチュエーションで

 

後手を踏んできた過去の失敗を活かせない。

 

人間捨てたか?ってくらい、事なかれ作業感覚。

 

これは国や行政、大衆も同じともいえる。

 

 

 

後者のBのほうは、

 

(自分たちにも起こる話、油断しちゃダメだ。)

 

緊張の持続をさせるような意図を

 

自分から意識的に持つ感覚。

 

 

これは引用した政治家たちで賛否両論もあるが

 

志村けんさんの死を教訓に、というスタイル。

 

どこか楽観的な人にも、そしてあらゆる世代に

 

すべてとは言わないまでも、

 

スイッチが入ったように感じます。

 

 

テレビを通じておぼえている人が亡くなったんだ、

 

って感覚は、よりリアルに自分ゴトとして迫る。

 

 

志村さんは、教訓にしてもだいじょぶだ~って

 

思っているはずなんですよ、当人の感覚なら。

 

ワタクシならそう思えます、どんな扱いしたっていい。

 

社会が混乱しないための歯止めになるならと。

 

 

亡くなった人をダシに使うなって批判。

 

あの批判は周囲だから、本人以外だからこその感覚。

 

いつも周囲は汲み取りすぎて、本人より飛躍して

 

自分の感覚でジャッジしてるんです。

 

 

自分の視野が狭かったなってことは誰でもある。

 

何かをキッカケにして、気づくことは当然です。

 

その感覚の意図に気づくために、今後のためにもね。

 

 

亡くなった人のためにも前を向いて、

 

いま何をすべきかを考えるキッカケにすべきです。

 

それも立派な供養の気持ちになるはずですよ。

 

 

あぁ、今日もなんだか説教めいている(笑)

 

がんばろうだけでは済まない状況ですから、

 

やっぱりみんなでいろいろと考える気持ちが

 

大事なんだと、改めて思いますね。