前にも書いた気もするが、
混乱という現象には波及効果がある。
目にみえない不安が不安を呼び、
さらなる混乱を引き起こす。
経済への影響とか事態に窮する国民への対応とか、
さまざまな要求をいっぺんに突きつけると
これは混乱に波風を立ててさらに大きくするだけ。
順序だてて最後までやるべきことをやるためにも
優先順位をつけられないことでも、残酷にみえても、
順位をつけて対処する必要があるんだろうなと思う。
問題はそれを受け入れるだけのガマンが利くかどうか。
議論が進まない政治家も、市民もそりゃ出てくる。
自分を助けてくれ、自分の意見を聞いてくれ。
混乱時において、気になるのは
助けられる範囲の要求に、自分がすぐそばにいても
自分の安全を下げてまでリスクを冒さない姿勢だ。
助ける気持ちがあっても素直に助けようとしない。
食べ物や物資を分け合ったり、融通したり。
市民全体として周囲と互いに協力しあうという一歩が
ちょっと重くなってしまったのではないか?
ほんとはできなくはないのに、
助けたり、親切にしたり、できなくはないのに
面倒だからとか、わずらわしいだとか
いろんなことが人をちゅうちょさせ、
一歩踏み出すことができなくなっている。
みんな怖がるあまりに、消極的になってしまい
必要のない不安や混乱を生んでいるのではないか。
ここにもちょっと指示待ちな感じが馴染みすぎて
機能性を失っているような側面がみえてくる。
むかしの人ならみんなが協力することに
心理的な迷いは生じなかったはずである。
なんか違う、なんか人が変わってしまった。
うすうす感じているとは思う。
親切がアダとなり、凶暴な事件が頭をよぎり、
いつのまにか、助け合えない社会になり、
いつのまにか、専門家にのみ依存する社会になった。
素人は手を出してはいけない、のではない。
素人が手を出すと混乱するかもしれないけど、
目の前でおぼれて苦しんでいても専門家待ち。
その人のこころには疑念がずっと残るだろう。
それでも専門家じゃないから、責任はとれないからと
私たちは今後も逃げ続け、責任を回避し続けるのだろうか。
やっぱり、なんか違う。
こんなんじゃなかったよ。
なんでこんな人たちばかりに
なってしまった、してしまったのだろうか。