さて、一気に動いた政府の決断。

 

公共的な場所も右にならえで休業、休館に

 

なってしまうんでしょうか?

 

 

その地域によって柔軟な判断が求められる。

 

一日、二日ずらして対応するのも地域によって可能。

 

この「指令」にプラスマイナスゼロで受けとめるのか、

 

余裕と幅を持たせることで不安を和らげられるとみるか。

 

 

 

浮き彫りになるのは、緊急時の私たちひとりひとりの

 

冷静な判断力と、そして決断力ですよね。

 

 

さらに言うなら、平常時とは違うという認識のスイッチを

 

自分でどれだけ受け入れられるか、ということ。

 

 

通常運転の毎日を過ごしている私たちには、

 

急に受け止められないことも多いと思います。

 

ただ、このようなケースっていうのは地震や災害時での

 

自分や社会のスイッチの入れ方を経験しておく機会にもなる。

 

 

阪神大震災も、東日本大震災も「急に」ですからね。

 

いってみれば急に何か物事を頼まれて、どこまでできるか。

 

やるのは判断するのは、自分でしかない状況を体験する。

 

 

来るよ、来るよと言われていつ来るかわからない大震災へ

 

リンクさせて考えてみることもできるのではないでしょうか。

 

あの時の経験があったから混乱せずにいられたと

 

振り返ることになるかもしれませんよね。

 

 

 

「急にそんなこと言われたって困るよ」

 

この逃げが通じないのが災害時ですよね。

 

子どもの自立を促す機会にもなるかもしれないし、

 

自分で考えてこうしよう、ああしようという体験をして

 

なんか変われる機会にもなるのかもしれません。

 

 

子どもだけでなく、大人も困難なことが様々発生するでしょう。

 

対応に追われるのをどんな気持ちで受け止めるかで違う。

 

 

あまりに通常運転の日々に慣れ過ぎている私たちには、

 

少し時間が必要なのかもしれませんが、そのときでさえ

 

緊急時も時間は同じスピードで、同じリズムを刻んでいきます。

 

私たちが通常運転のリズムを刻むように。

 

 

 

どうすればいいのかわからないとか、

 

指示待ちや判断待ちであるとしても、

 

こうなった場合にどうするかを自己検討して予測を立てる。

 

自分のなかに選択肢を想定しておく必要があると思います。

 

 

混乱した人を見てしまうと、なんだかわからないような

 

胸のザワザワがあって不安が伝染していくこともある。

 

そのとき自分が冷静に、流されずに判断できるか。

 

そのスイッチを雑踏をかき分けてみつけられるか。

 

 

不安が強いと若干、他人にも攻撃的になってしまいます。

 

なんでやっておかないんだ、なんでできていないんだ!

 

感情をどこかで発露したくなるんです。

 

 

そこで感情的にされて、相手に感情的に返すと

 

マスクがらみのいざこざで路上でケンカ、

 

のようなことになってしまいがちです。

 

 

ワタクシは若干、不謹慎ながらこのような非常時に

 

ワクワクしてしまうんです、いい意味でこの機会をとらえ、

 

こんなときに自分がどう考えて、どう行動して、

 

どう言葉をかけることができるのか。

 

 

どこまで自分ができるのか。

 

あるいは、自分がまるで無力なのだと知れたら知れたで、

 

もっと厳しい条件下にさらされたときのレッスンにも

 

なるのではないかと。

 

 

こういう体験をどうとらえるかで人の成長も価値も

 

違ってくるんだろうと考えています。

 

みなさんも自分がどんな考え、行動ができ

 

どんな言葉を伝えられるのかを

 

考える機会にしてみてはいかがでしょうか。

 

 

上からっぽいなぁなんか(笑)