僕ら中年世代が子供のころの話。
まだゲームが遊びを席巻してしない時代。
僕らはいつも外で遊んでいた。いつも。
多少の雨も風も雪も、気にしてなんかなかった。
野球やサッカー、かくれんぼ・・・
野球はビニールのボールやソフトテニスの
あのフニャフニャのボール。
バットがなければ、木の棒、はたまた手打ち野球。
地域の仲間たちとともに、年上や年下混じり合う一つの社会。
ケンカして仲直りして、間違ってたり、教えてもらったり・・・
なんだか、すごく楽しかったのをおぼえている。
これは「用意された、つくられた楽しさ」じゃないからこそ。
自分たちでルールを決めて、それでもルールを破ったりして
怒ってケンカして、でもルールを破るのも楽しかったりして・・・
その空間で知る、清濁併せ吞む、白でも黒でもない気持ち。
相手を許したり、譲歩したりして仲を取り戻す。
この過程を自然と自分たちで学んでいたんだなと
今頃になって気づくんですよね。
ただ、中学生ぐらいから社会のルールに
自分からはめ込まれるように順応していく。
それがオトナなんだよと、うそぶいてみせながら。
いまや数々のサービスは洗練されてはいるが、
用意されすぎていて、与えられたことをこなすだけ。
これで楽しめるんだから、ラクじゃないかというが・・・
主体性すらも用意してくれなきゃ何もできないの?
いろんな筋肉使えてないのではないか?
こんなに動かない人類って価値ありますのん?(笑)
ホントの楽しさって、そんなもんじゃない。
自分でみつけて、自分で決めて、カタチになっていく感覚。
こんな楽しいコトないでしょう?怖いんすか?
やっぱり外でカタチのない遊びを
自分たちで考えながら
ルールを決めてやってたときが、
僕らは一番、楽しかったのではないか?
春の雪どけで顔を出してくる土やアスファルトのニオイ。
意味のわからない雑草や木を集めてつくった秘密基地。
換金してもらうために必死こいて探したジュースの空きビン。
ルールを決めて、守らない人も必ず出てくるけど
ちゃんと面と向かって、向き合ってダメだと言ったし
ちゃんとやろうよって直接伝えたし、叩き合いのケンカもした。
結果、通じてくれて仲直りしたりしたでしょう?
この感覚って地域社会への参加のカギにもなる。
みんなが自主的に参加して、決めていく過程。
かなり埃かぶってますけど、まだ使えるでしょう?
誇りをもっていい社会参加の仕方ですよね。
偉い人や社会的地位や収入などじゃなくて、
面白くて頼れて、ちゃんと話せて、ちゃんとふざけられる人。
ネクタイ直したり、カッコつけたり、そんなん要らん(笑)
ジャイアンな人たちが、回したほうがいいんですよ。
自治会だとかそんなクソみたいな組織にいなくてもいい。
通じているようで通じていない世界で役割を演じるよりね。
僕らがむかし、ふつうにやれていたことをやるんです。
難しくしなくていい。ただ少しだけ、むかし悪いことして
迷惑かけたなら、その人たちにではなくても
社会全体に対してでも、少し恩返しできたらいい。
むしろそういう人たちでないと、素直に場が動かないから。
難しい言葉は要らない。知らない言葉も要らない。
まずはみんなで参加して、自分でやる気になるところから。
なんでもそうですよ、人生で出会うことすべて。
すべては白でも黒でも、黒でも白でもないでしょ?