宮迫ブログが始まったみたいですね。
最後の本人のあのポーズと表情の画像は、
おのおのツッコミ入れてね、という・・・
お笑いは笑う人の側の気分ひとつ。
アレを笑うかどうかは、またその人次第。
観てる人こそ宮迫と同じ表情してるかもしれないし(笑)
記事のタイトルで、宮迫~です!を
文字って「宮迫~れす」にしてみた。
れす・・・レスポンス、反応のレスであれば
大衆のみえる反応はまだ冷ややかな面が多い。
以前書いた「しばらくのあいだ。」という記事のような、
意味合いが強いのだろうと思います。
ボーダレスとか、シュガーレスとかの意味での
少ない、無いとかのレスなのかな?
まだ、「なくてもいい」という感覚。
時間が経つと、〇〇ロスみたいな状態に戻るのか、
それともなくてもいいままなのか。
需要があればというけれど、需要なんてもんは
実は声を大にしている、目に見える反応ばかりではない。
サイレントマジョリティーのような大衆のほうが、
実はホントの声、反応だったりする。
ガミガミうるさめに吠え立てる一部に迎合していくと
どんどん全体が苦しくなるのは明白ですよね。
無視しろとは言いません。そういう人たちのハケグチとして
ネットのポジショニングがあると思うので。
極端にいえば、「好き←←←私たち一般→→→嫌い」の
両端の両極端だけの、意見といっても過言ではない。
問題は、その反応に対して、過剰反応して楽しむマスコミ。
そして私たちは、マスコミは自浄作用がないと悟っているでしょ?
だとすれば、ネット反応→マスコミ→サイレントマジョリティー
って流れでみると、最後のサイレントマジョリティーが
流されないでいることが大事なんですよね。
ここは反応がみえないんです。
レス(反応)がレス(無い)状態なんですよ。
だからホントは、ネット反応⇔マスコミの往復で、
増幅していく、エスカレートしていく方向に合わせなくていい。
スポンサー関係はこの往復と両端の両極端の意見に、
必要以上に右往左往しすぎてしまう。
そして、必要以上に凝り固まった先入観に振り回されてしまう。
2010年代は特にどんどん苦しくしてきましたよね、自ら。
そろそろ反応への反応について、考えるべき時代でしょう。
みんなバラエティー番組と同じ感覚で、やんややんやと(古い・・・)
やってるからとりあえずみてる。この延長線上。
他人で、顔がみえないから、言いやすいんですよ。
ぶつけやすい、ボルテージが上がりやすい。
渦が渦を呼んで、巻き込んで大きくなって更地にする台風。
私たちのようなホントのサイレントマジョリティーは、
最後この更地になる場所を、すんごく寂しくみつめている。
更地を喜んでいる人はあまりいないのが現実です。
だからチクッと刺さったからといって、
トゲをなくしてしまえという発想はやめたほうがいい。
チクッと刺さることが、ホントに心に刺さることもある。
そこにすら、気づけない人間ばかりになるのでは?
そろそろ「パターンを踏襲する」時代をやめる時期でしょう。
特に悪い方にしか流れないパターンの踏襲を。