昔、自分がみていた記憶の中のお年寄りたちは
歳をとることを自然と受け入れていたようにみえる。
現代との進歩の差もあるにはあるが、
加齢とともに、自分にあらがうことなく受け止める。
そんな感じにみえていた気がする。
自分のなかで少しずつ衰えを感じつつ、それでも
こんな自分も悪くはないのかなと受け入れていく感覚。
徐々に馴染んでくるようなイメージがある。
ただ対外的には、ちょっと色気を見せてしまう部分も
まだ年齢的に捨てきれていない自覚もあるにはある・・・(笑)
いま40代のワタクシも、自然と僕やオレなどを捨てて、
ワタクシやワタシなどを使いこなすようになってきた。
主に公的な場では。
一番は社会的な地位の向上とともに、大人としてのふるまい。
自分なりに立場を自覚して、周囲に合わせて使うようになる。
でもオープンな関係性になると「僕」や「オレ」になるオッサン・・・
まぁ、いますよね。たぶんなんの違和もないはずです。
その生まれた土地の方言の場合もあるでしょうし。
考えてみれば、女性はあまり呼称が変わらない場合が多いかも。
一般に、結婚して子供が産まれて、育ててという流れだとすると、
肩書きチックにパパ、ママ、父さん、母さん的な呼称を経て、
自分を他人との関係性なく、呼称するときは
ワタシか、アタシで変わってないのかもしれない。
もちろん名前呼びは論外です(笑)、それだと趣旨がブレるので。
男性は僕、オレ的なところから父となる時期の呼称と並行して、
特に公的な場のようなときは、ワタシやワタクシに変わる。
いまはいろんな立場の人がいますから、あくまでイメージでね。
マナー的にはスマートさがあり、ちゃんとしてる感があるが・・・
これも装いであって、「よそ」の人を「おい」かけて自分も・・・
みたいに周囲を感じながら、発してるような気もしますね。
現代の大人たちをみてフワッと思うのは、
オトナっていうカタカナ表記の、軽い感じの年寄り感が強い。
ってことじゃないだろうか。
おもちゃ集める、マンガ読む、アイドル追っかける・・・
なんだか「記憶の中の大人」と違和感のあるオトナ。
あえて「を」を抜いてしまうほど、幼さを同居させている・・・?
やはり若い頃の文化やしつけ、育ち方の違いがあるんだろう。
「若い時分の自分を否定し、断ち切ることで大人になる。」
いつからか、そんな選択をしなくなったのではないだろうか。
妙に入り混じってるんですよね、オトナに若者が残ってる。
やっぱり「若者を捨てきれない人」なんでしょうね。
んで、若者を維持しようと思えば、できる世の中になった。
ビジネスもそこをいじくり回してます。
逆にそこをいじくらないとビジネスが成り立たないくらいだろう。
いいでしょ?楽しいですよ、気持ちいいですよ、便利ですよって。
ほだされて、「若さ」を取り戻そうとする気持ちの一端もわかる。
ただ加齢に何か怯えてる感じにもみえる。
歳をとることへの恐怖のような、なんていうか・・・
無意識なピーターパン・シンドロームといったところか。
時代が変われば、年寄りのイメージも変わってしまうのは、
否めないものなのかもなぁ・・・なんて思う。
年齢によってカテゴライズされた分野へ向かう。
学校を卒業するかのように、自分のたたずまいを
移動させるようなことがなくなってきてるのかもしれない。
みんなどの世代も、過去の自分を両脇に抱えて移動してる。
これもまだ必要、まだ楽しめるし・・・捨てるには未練がある。
年齢とともに、A→B→Cと脱ぎ捨てながら移動するのではなく、
A→AB→ABCというように、全部捨てずに行く感覚。
できなくなったり古くなったりしてるのに、様々なアプリを
アンインストールしないまま、ずっと抱えたまま・・・
容量を増やし続けて、動作の遅い状態みたいな。
う~ん、どうだろう・・・?こんな人
そしてこんな文章のイメージが、
はたして、みなさんに伝わるだろうか・・・(笑)