しばらくのあいだ。
この言葉はなんとなく
熱を冷ます意味合いが強い。
芸能人に代表されるように
不祥事を起こした(とされたも含む)人たちが
大衆の感情の熱が冷めたころに復帰する。
違うか、冷めた「頃合い」を見計らって復帰する。
でもそれは許さない風潮のこじれみたいなものが
影響しているように思う。当事者以外の大衆の圧力。
自粛しておとなしくしている雌伏の時は、
つらくもあり、自分を冷まし、覚ます期間にもなる。
当人は自分のことを反省もするし、軽率だったことも
取り返しのつかないことをしたことにも後悔する。
それに対して当人をみつめる視線には、
至福のときを謳歌しているように感じてしまう、
ヘンな嫉妬まじりのバイアスがかかっている。
その人がしくじった瞬間に一斉についばみ始めるように、
いい気になりやがって(ざまぁみろ)感のまさに独壇場、
誰も止められない。
なにをやっても叩かれる裏側には、こういう心理がある。
しばらくのあいだ。
この期間は大衆心理が雨風にさらされ、ほかのエサに
食いついていって、緩和された状態になるときまでなのかな。
大衆心理に潜む感情的な喜怒哀楽におびえる。
自分も怖いからその不安を打ち消すように、
他人を攻撃せずにはいられなくなっている。
昨今は他者への敏感に反応しすぎる流れが止まらないが、
このままこのパターンを社会が熟成させ、煮詰めていくと
結構、キツイ世の中に変わってしまうだろうな。
むかしは忘れることはできたが、いまはすぐ取り出せる状態。
調べればみつかってしまう、思い出してしまう。
なんだか、うまくできるように進歩してきたはずなのに、
うまくできなくなるような感覚がますます大きくなっていく。
その対象に対して、自分の感情を発散してるのでは?
自分がイヤなこと、ダメだと思うことを、どこかで言いたい。
ただ言うことだけで、終わってしまう。その場スッキリ。
できないからこそ、逆に攻める、責める。
それは言ったところで何も変わらないから発散するんだ!
みたいな感覚もあるんだろうなと思う。
せつない思いは、受け身のままでは何も変わらない。
抱えたままでは大きくなるだけ。
大きくなりすぎて抱えきれない人が潜在的にたくさんいる。
膝を抱えてこのままやり過ごすしかないのだろうか。