「食育」

 

なんだか自分本人としては

 

学んだ記憶はあまりないよなぁって。

 

 

僕らは意識しておぼえた記憶はないんだけど

 

両親や祖父母たちはこの子のためにと

 

大事に教えてくれたんだろうな。

 

 

食についてだけでなく、食べ物をつくるまでの

 

自然や人の営みによる恩恵であることを

 

体験して理解していくことも含まれるんだろう。

 

 

最近はどうしても便利になったり、高度化したから

 

≪―自分の時間―≫≪食事≫≪―自分の時間―≫

 

こんなイメージが強くなってるんですよ。

 

 

食事って家庭でも食べること自体を大事に

 

しなくなりかけているのかもしれないって。

 

 

食事を「済ます」っていうくらいでね。

 

処理感覚で食べることを軽んじてる感じすらある。

 

 

外食だって、注文して待ってたら運んできて

 

「処理」して、あとはそのまま支払って帰る感じ。

 

これは食べ物をジブンゴトとして考えなくなりますよね。

 

 

食事するって、食材をつくっている人がいて

 

それを届けようとする人がいて、買う人がいて

 

調理の準備をして、調理して、盛り付けて。

 

そして食べたあと、片付けて調理器具や食器を

 

洗って拭いて、そして食器棚にしまっておく。

 

 

ほんとはこんなに食事の前と後にやることがあって

 

そこを経験してみることによって、つくってくれることはすごく

 

大変なんだなと、ありがたいなと、手伝わなきゃなと。

 

そういう気づきを子供にも大人にも与えるんじゃないの?って。

 

 

食事を済ませたらすぐ自分の世界に戻る

 

スマホを離さない食事を認める親も親だが

 

そこはたぶん自分もしているから強く言えない人もいるし、

 

説得力のある理由と行動が自分にないからでしょうかね。

 

 

実はおじいちゃん、おばあちゃんが当たり前に

 

同居して食卓を囲んでいた時代は、親も含めて

 

厳しめの監督官になっていたんだなぁと感じますね。

 

 

「あとはやっておくから」とか親が言ってしまうと・・・

 

そしてそれを助ける便利な調理器具、食器洗い乾燥機

 

手軽に買える惣菜、弁当、コンビニ・・・ね?わかるでしょ?

 

 

楽なほう、楽なほうへと人間をしていくと

 

本来伝えなきゃいけない大事なことが

 

伝えづらい環境として、私たちの社会や生活は

 

整っていく矛盾が生じてしまっているんだよなぁと感じます。

 

 

もっと食事について食べる前後を考え、見て、体験して

 

そんな機会をもてるような飲食ビジネスもあっていい。

 

衛生管理などいろいろと法律が難しくしてる矛盾もあるけど。

 

 

いつのまにか大事なことが伝えられない社会に、

 

伝わりづらい世の中をビジネスに誘導されるように。

 

私たちも認めちゃってしまってたんだなって感じますね。

 

 

あぶないから包丁もたせたくないとか

 

出来た惣菜で「済ます」だけでは

 

子供も大人も何も感じられないですよ、そりゃ。

 

 

利便性と矛盾することをキチンと経験させることで

 

別の視点でモノゴトをみれるようになったり、

 

想像力が豊かになったり、助けようとする一歩に躊躇しなくなる。

 

 

包丁で指を切るのも大事な経験(笑)

 

食べるときのためにしている調理の工夫を学んだり、

 

食べた後の食器を洗う人のために運びやすくしたり、

 

自分で洗うときにどうすれば洗いやすいか感じてみたり。

 

 

そして捨てたゴミはどう処理されて、どんな影響があるのか。

 

じゃあ、私たちはどうすればいいのか・・・?

 

環境問題にまで思考は飛躍することでしょう。

 

 

これは男女問わず。単身の独居老人がますます増加する

 

これからの社会だからこそ、子供も大人も男も女も。

 

そして年齢関係なく、素直に学んで助け合う気持ちを・・・。

 

 

食育を通して、感謝することを学び、ストレス耐性を刺激し、

 

めんどくさいことにも取り組めるよう、要らぬ障壁をなくしていく。

 

ありがとうと感謝しあえる関係性を学べるのではないかと。

 

 

食べることにちゃんと向き合うと、

 

もう少しこころが豊かに、デジタルな速度を落として

 

考えられる時間が広がってくると思いますよ。

 

 

まぁ、オチのイメージが伝わりづらいかこりゃ(笑)