今思うと昭和までの社会の不完全さが
適度にバランスを取っていたのではないか。
平成でいろいろと加速して整っていって、
令和になり、まさに完全体へ向かおうとしている。
昭和の成長を、平成で切り捨てながら維持して、
ひずみが顕在化して、崩れ去るかもしれない令和。
不完全さや、うまくいかないことを
むかしは人や世の中が、受け入れる機能があった。
どうしようもなくダメなことも、ダメな人もいるんだって
受け止めることでなんとなくバランスとってたんじゃないか。
たぶんいまの私たちの「整った環境ありきの時代」
とはちょっと違うはずですね。
いつの時代もそう。間違った道を行くと、「あーゆーふー」になってしまうから、
(そうならないように)がんばんなきゃなって。自分自身に意識が向いていた。
この意識の方向が、ちょっと変わってきてしまった気がする。
「自分がちゃんとしよう」ってことだけでよかったのに
自分の基準を目安にして、大人も子供も自分の外側にいる
「できない人」や「できていない人」を、攻撃し始めたんです。
矛先を「自分から外側へ変えてきた」のが原因で、「はけぐち」ともいいます(笑)
その感覚を社会が「許してしまった」のが大きいのかなと感じるんです。
なんで私がちゃんとしてるのに、
なんであなたはちゃんとできないの?って。
まぁこれはむかしもあったかもしれないけど(笑)
テクノロジーの発達によって拾われて、可視化されてしまった。
わかっちゃいるけど、そこ手を出したらダメだっていうような
悪い予感にも気づけなくなった。みなきゃいいのにみたがる。
それが顕在化し始めてから、ちょっと修復しづらいズレが出始めましたよね。
なんとなく雰囲気でみなさんも感じ取ってるとは思います。
出来ていない人は自分が一番悔しいけど、相手はそれをカサに攻撃してくる。
わかってるけど、どうしようもならない人もいるんですよ。全部ムリ論。
どこかでその人たちは逃げ道をつくって、
自分をなぐさめているようなところもある。
逃げ込んだ先は、アンタッチャブルな空間で、
清濁併せ吞む感じで、なんとか折り合いがついていた。
深く踏み込まない、暗黙の了解
みたいな感覚があったと思う。
その逃げ道があるからセケンに対しても
敵意をあまり見せなくて済んでいたところもある。
これは見て見ぬふりではないんですよ
ちょっと違う。見てるからこそ、肯定も否定もしない。
あんまり関与しちゃいけない部分ってあるでしょ、実際に。
ヘタに刺激すると全部のバランスが崩れるほど支障をきたすコト。
むかしの人たちはその辺もなんとなく、
肌感覚でわかっていたんだと思うんです。
なんだか酸素ボンベなしでどこまで潜れるか、みたいにエスカレートしていく。
わざと自分たちで苦しくしてるような気がするんです、社会全体で。
ノンジャイアンたる逆・感性の持ち主たちが告げ口するみたいに
暗黙のルールに正論掲げて土足で踏み込んでくる感じ。やっちまった感。
圧倒的に正しい位置から正論で決めにくるんですよ、「ルール」だからと。
そして、踏み込んだらいろんなリスクが増してくるのに、彼らの「ルーム」を荒らす。
彼らの部屋はそのまんまにしておくほうが、
持ちつ持たれつのバランスがとれる。昔の人は心得ていた感覚。
いい意味でのすみ分けができていたんじゃないか。
相手が武器持ったら、自分も武器持って身構えるでしょ?
触れないでおこうよってところを平気で掻きむしられる気持ち、わかります?
さまざまな凶悪事件においても、この作用があるのではないかと推測してます。
自己責任をたてに攻めすぎて、責めすぎると爆発する可能性があるっていう
想像力が欠如して、自分の正義が上回ってしまってるんです。
すぐに情報に感化され、看過できないほど反応をエスカレートさせる。
落ち着けよ、どーんとしとけ!って思うんですよ。
そしたらカサブタになるし、必要以上に傷つけなくていい。
カサブタをはがすのは正しいことなんでしょうかね?・・・(笑)