昭和と平成、昭和と令和でワタクシがなんとなく感づいた決定的な違い。

 

それは、人を束ねた経験がない人たちがリーダーになってしまってたこと。

 

 

これは私たちの社会のなかでも軽視してる人も多いけど、

 

結構大きな問題なのかなと思うんですよ。

 

 

どの人間関係においても下にいる人は上の人を

 

「見ている」「ジャッジしている」・・・どの程度のウツワなのかを。

 

 

この局面でどんな行動とるのか、どんな言葉をかけるのか。

 

「さすがだな審査員」になっているんですよ。フトコロの広さをはかってる。

 

 

生意気にも(笑)、でも、どの時代もそうやって下は上をみてたんじゃないか。

 

偉そうな人でも、親しみやすい人とそうでない人もいるが、いざというとき、違うでしょ?

 

 

なんというか、今は、うまい人は多いんだろうけど、そうじゃない、こころが動く何か。

 

そこは知識やスキルで補えない、人間性そのものがあらわになりそこで差が出る。

 

 

リーダー像は昭和はジャイアン、平成・令和は出木杉くんみたいな感じかな。

 

一般的には愛されキャラにもなるジャイアン。そんなにアタマもよくないがそれもいい(笑)

 

 

これに対して、何事もこなせるんだけどパンチ効いてないし、魅力も欠ける出木杉くん。

 

何かの事態を挽回しようとするときに理詰めで来られるほうが、ダメージが蓄積する。

 

 

ジャイアンたちは少し理不尽だが根はやさしい。付き合えば深くでつながる信頼を得る。

 

ところが、洗練されている出木杉君たちはどこか頼りなく、言葉にチカラがない。

 

 

強い言葉を同じように発していても、伝わる温かみがちょっと違うんですよね。

 

なんとなく冷たくて、助けるにしても差し伸べ方にちょっと、違和感を覚える。

 

 

これは、不安に対して人を包み込むような、ガキ大将的な経験がないからではないか。

 

人を束ねて、引っ張り導いた経験がある人とそうでない人の差が浮き彫りになる。

 

 

人は筋書き通りキレイに育っちゃダメな気がする。それはたぶん昔も今も変わらない。

 

変わったのは社会の圧力のかけ方と、私たちの生活スタイルにもあるんでしょう。

 

 

すべきこと、すべてに対して、常に100%正解で答えよというプレッシャーが増し続ける。

 

表面的に正しいんだけど、あまりに人間味に欠ける人が束ね出して風向きが変わった。

 

 

自然や大地が私たちに気づかないように、少しずつ動いて呼吸しているように、

 

少しずつ私たちの社会や人生、人間関係にもズレを生じさせてしまったのではないか。

 

 

私たちがそこに気づき始めたころには、なんかもう、どうしようもなくズレてしまった。

 

それは、実はジャイアンたちの調整力や修正力が効かなくなったからなのではないか。

 

 

学歴社会が整う前は、ジャイアンが町の至る所で、身近なコミュニティでも効いていた。

 

いつしか知識やスキル、学歴中心のドライな感覚が支配し始め、比率が逆転した。

 

 

決定権に携わる人の層が、「ガキ大将未経験者たち」で埋め尽くされてしまった。

 

みえる環境(地域)では干渉を嫌い、みえない環境(ネット)では過干渉に吠えたてる社会。

 

 

あまりに縦割りすぎて、効率的にやろうとしすぎて、やさしさをすり減らしてしまった。

 

いま私たちの社会に必要なのは、朗らかで温かいジャイアンなのかもしれませんね。