いつだったか、みたくないなって現実を見せられた。

 

いわゆる、「8050問題」を抱えた親子であろう現場を。

 

 

ちょうどそのときは、自分の親戚の叔父が救急搬送されて待合室にいた。

 

ああいう空間は、みんななんかどんよりしてる。

 

 

あきらめというか、むなしいというか。それとも現実をただ受け止めるというか。

 

なんか粛々と、クウを見つめて待つような。自分と向き合う時間が流れる。

 

 

しばらくして、車イスのおばあちゃんとその息子らしき二人が入ってきた。

 

ちょっと軽い処置室のようなところのほうに来たようだ。

 

 

白髪まじりのおばあちゃんは、少しうつろな様子だが淡々としている。

 

息子はみなりはいわゆる勤め人という感じではなく、ちょっとくたびれた格好。

 

 

息子はブツブツとなにやらつぶやきながら、車イスを押していた。

 

「死なねぇ元気なババアだ・・・ハァ・・・(舌打ち)・・・あーあぁ(嘆き)」

 

 

なんとなくわかるぞ、息子よ。そのちょっと恥ずかしがる見られたくないからこその気持ち。

 

だが、8050問題の現実を見せられたようで、なんだか切なかった。

 

 

車イスの母らしき人は、素っ気ない感じの無表情で、なにもかも預けてる感じ。

 

息子は職業不詳な感じだが、髪の毛ボサボサ、古めかしいジーンズにスニーカー。

 

 

しきりにガラケーをみながら手持ちぶさたにしているような。

 

一番悪い想像をすると、ニートの息子と、その老いた母親というギリギリの感じかもしれない。

 

 

ああいう瞬間は、見ていてホントにツライ。声もかけられないし、イヤな顔もできない。

 

イヤな顔を「したくてもできない」のではなく、「したくない、しないで受け止めよう」の感覚。

 

 

遅かれ早かれ、みな向き合う現実の瞬間。

 

わかってるよと思いながらやっぱりツライ瞬間。

 

 

救ってやることはできない。ただ受け止めるのみ。そういう瞬間。

 

いまのなんでも叶えた便利な社会とそれぞれの家族、それぞれの格差。

 

 

ギスギスした私たちの社会、これに慣れた世代が10年、20年先に迎える現実。

 

助け合うとか、ねぎらうとか、黙って受け止めてあげるとか、できるのかな?と疑いたくなる。

 

 

変な話だが、生きすぎるのはやっぱり本人も、周囲もツライ現実を迎える現代社会。

 

腹の立つことも、うまくできないことも増え続けていく、健康寿命の切れた先のゆくえ。

 

 

どうしたって、みんなでなんとか助け合わないといけない時代に戻らなきゃならないと思う。

 

個々人の理想を叶え続けて、個人主義を極力侵害しない社会にしてきたけれども。

 

 

やっぱりみんな救うことはできない現実に私たちは向き合うんだろうと思う。

 

経済的な格差と、家庭環境と、叶いすぎた人間があるとき向き合う、敵わない現実・・・