自分の将来が、自分の稼ぎが、自分の、自分が・・・みんないまそれが一番にくる。
間違いではない、誰も救ってくれなくなったら最後は自分しかいないんだから。
でもこれもよく考えてみて下さい。自分のことだけをみんなが優先し出したから、
手詰まりになってしまった。実は「自分優先」が冷めた社会の原因なんです。
犠牲になる者たちを非正規に落とし込んで生き永らえるしかなかったのかもしれない。
自分が良ければ、を選択した高度成長時代の主役たちは逃げ切りをはかった。
家族5人に対して1つあれば、よかったものがみんなに行き渡った(テレビとか、電話とか)。
ビジネスの市場として、ひとりにひとつ欲しがらせるように仕向けてきたんですよ。
こうやってどんどん協力し合う機会を、利便性によって気づかせないように失わせた。
売るために儲けるための戦略が、家族や社会の在り方を変化させてしまった。
なのに相変わらず売ろうとしている。まだまだ消費で社会を動かそうとばかりしている。
私たちはもうだまされないように気づくべきなんですが、なかなか欲に勝てない。
話すこと、助けること、理解し合うこと・・・年配者なら自然に学んできたいろんな機会を、
私たち人間は自らが生み出した機械によって失わせてしまいましたね。
話さなくてもいい、助け合わなくてもいい、理解し合わなくても生きていける世の中。
お金さえ、社会的にステータスさえあれば・・・消費するマシーンになった。
私たち現代人はこの事実や原因を知ったうえで別の視点を持つべきだと思う。
あらがえないとあきらめきっている社会の流れに逆らってまでもやるべきである。
消費する側に自らを置いてしまうと、やってもらうという受け身が染みついてしまう。
自分では動けないと「思い込んでいる」だけであって、動こうともしない、その意識。
ひたすら他人任せ、機械任せ、誰かがやってくれる。それをただ、見ている。
勇気をもって体を張って、動かなきゃならないんじゃないのか?
W杯ラグビーをみてると素人ながら、何かを揺さぶるものがあるのは間違いない。
ぶつかり合いにボルテージが上がり、前へ前へ大きく心を揺さぶるものはないか?
私たちが未来のために、なにができるのかを本気で考えなきゃいけない。
でもね、みんなキッカケがないと心が本気で動かないんですよね。
稼ぐ、稼ぐ、みんなカネカネ。逆に稼がない視点にもヒントは隠されていると思う。
私たちがまだ「動かし方を知らないやり方」が残っていると確信しているんです。
やってもらうことにお金を払う。それがいま、まかり通って常識になっているが、
お金じゃなくやってくれる気持ちはそれを受け取る人の何かを動かすはずなんです。
「やってくれたその気持ちがうれしい」と感じることってのは違う回路で人をつなぐ。
その気持ちに対して、気持ちで応えたくなるのがかつての日本人ではなかったか。
モノやコトの組み合わせ方、人の気持ちの組み合わせ方。視点を変えてみるべきでは?
昔を知り、体験してるのが「お年寄り」です。つまり「お年寄り」が体験してきたこと、
この利便性によって変質させられてしまう前の社会を知る世代が舵を取ってやれること、
次の世代のためにひと肌脱ぐ役割が実はあるんですよ。お荷物扱いじゃ悔しいはずです。
人間の知恵と資力を持つお年寄りが、自分のことだけでなく未来のためにやる。
この意識は思っている以上に高い、ただ動き方がわからない。整っていない。
だから誰かに用意されたアイデアでしか、次の世代のために残してやれない。
他人の土俵に乗るのは正直、こころの底から気持ちは動かないもんです。
自分たちが話し合って、協力し合って、アイデアを出して実行していく。
まちづくりやコミュニティづくりに自分たちの知恵や経験、アイデアを反映させる。
これほどワクワクして、やりがいがあって、前向きに貢献できるものはないのでは?
お年寄りは確実に、我が子や孫の世代のために何かできることを欲しているんです。
それを叶えるために必要な、自然に前向きになれる集まりが各地にあればいい。
すぐにうまくやろうとしなくていい、そんな簡単に進む話でもない。
ただ、こういう意識を次の世代に伝えること、身をもって示してつないでいくこと。
やってみたらすごくおもしろいことになっていくのではないだろうか。
注意しなくちゃいけないのは、これまでいろんな人がやろうとして失敗してきた事実。
その原因は、すべてをうまくやろうとしてすべての意見を叶えようとするからなんです。
これは政治の問題と同じで、あれもこれもやろうとして、応えようとして前に進めない状態。
構図としてはいっしょ。だからこれまでの組織や常識では、必ず失敗するんです。
知恵や経験を、意識的にこれまでと違う組織や土俵、違う常識の上に挙げてやること。
土が変われば、同じ水や同じ種でも花の咲き方、実のなり方が変わるでしょう?
既存の組織、土俵、常識にどうしても私たちはとらわれてしまう。
こうなれば「こうするべき」、これでダメだったのならば、「こうするべきところを変えてみる」。
意外にすら思う、常識じゃない違う組み合わせを試してみて、うまくかみ合えば、
私たちの社会はまだ見直せる部分がたくさんあるような気がするんですよね。