エンターテインメントのはざまで揺れる、加工問題をどうみるか。

 

さんざん個人ではいろいろSNSとかで加工しといてそれはねぇ・・・。

 

 

結構、自分本位なもんですよ、人間や社会なんてものは。

 

自分が良ければ、自分はアレだけど他人は腹立つみたいな。

 

 

僕はもう、だいぶ前から行きすぎてるよ、って思ってます。

 

たぶんぶつけるところがなくてぶつけてる感じはしますね。

 

 

ちゃんとやんなきゃ理論はわかるんですが(クソ真面目人間たちの仕業です、笑)、

 

自分越しのちゃんとやんなきゃ感が目に付くんですよね。

 

 

自分もやってるんだからあなたもやれ、やらないんだからやるなってね。

 

これやりだすと窮屈になるのわかってて、他人を責めるのはやめない。

 

 

自分だけ文句いっちゃってもバレないよねって心理もあるでしょう。

 

ただウスウス感づいているでしょう、もう全体のシバリが逆に不自由すぎると。

 

 

文句タレる→拡散される→責められる(攻められる)→社会的制裁

 

これは最初の矢印が成立しちゃったからダメなんですよね。

 

 

知らなきゃ知らないでいいことたくさんあって、そこはうまいこと自然の摂理で

 

拡散されずに土にかえってた部分があったんですけどね、むかしは。

 

 

良い悪いを言いすぎてもキリがないし、逆に不安やストレスが増すだけだと

 

先人たちもわかっている、というか自分のまわりでも経験してたでしょうね。

 

 

いまは誰も止める人がいない。止めようにも止まらないものつくっちゃった。

 

土にもかえれず、転がってしまって誰か拾う。アスファルトが多くなりすぎたから(笑)

 

 

そのままの良さもあるし、素材を加工して活きるものもある。

 

ウソは良くないっていうけど、あえて「たまにウソも良しとしてみるか」って発想も大事。

 

 

なんか余裕がない心が社会に溢れてて、いろんな局面でシビアにしてしまいがちになる。

 

たぶん、誰かを許すと自分も誰かによって、一回は許してもらえると思うんですよ。

 

 

やさしさを誰かに与えたら、まわりまわって自分にやさしさがかえってくる・・・みたいなね。

 

「(他人に)許してもらえない自分」ってのは、なかなかどうして。ツライもんですよ。

 

 

完璧にしたらしたで腹立つんですから(笑)、どっちみちアラ探して気に食わないんです。

 

じゃあまず、自分がやさしくしようって思うんです。要求する前に一回許そうって。

 

 

たいがいは、失敗したなとか間違ってたなってことは本人はウスウス気づくもんです。

 

わかってて言われるから腹立つ。「勉強しようと思ってたのに勉強しろ言うな」ですよ(笑)

 

 

社会が要求しがちなそれが当たり前ってハードルは意外と高い。

 

陸上のハードルと同じように。自分も加速して走ってたらいけそうですけどね。

 

 

目の前で静止した状態の人に同じように跳べって・・・ちょっとおかしなーい?ってなる。

 

もっとひとりひとりが許したら、自分にまわってくるハードルも低くなるんですよ。

 

 

ニュアンスとその波及していく感じはなんとなく、伝わるとは思います(笑)

 

それなりの想像力はあるでしょうから、やさしい文章や例えはしません(笑)

 

 

東電もね、責められるばかり。自然相手に私たちの要求ハードル上げすぎでは?

 

まだ復旧してないところがあるにせよ、やっぱり彼らにもねぎらいは必要ですよ。

 

 

復旧しても「やっと電気通った、よかった」はメディアでよく見るんですが、

 

「ごくろうさま、ありがとう」って言葉は意外に聞こえてこない。

 

 

ここにも当たり前の高いハードルがあるんですよ、やっぱり。

 

とんでもない潜在能力を秘めてる自然を相手に人間の理屈はもろいですよ。

 

 

チラシまるめてつくった、おもちゃの剣で構えてるみたいなもんですよ。

 

もう少し私たちはみんな、許したり、ありがとうって言いあえたらいいのにね・・・。