「逆に〇〇だよね」っていいますね。まぁ言葉の歴史は置いといて。
重要なのはそこじゃないんです。松本人志の賛美でない。
別の視点を得ると人間、違う角度で見れますよということ。
ここで注目したいのは「考える」ということ、「調べる」ことではないという視点。
人が生きて成長し、社会のあらゆる場での担い手として出番がくるとき
スマホで調べて「正解らしき」ものを見て、考えもせず行動してよいものか。
自分に問いを立てて考え、向き合う時間を持てない現代人は、
実はかなり不幸ではないか。ワタクシもいま、書きながら考え、考えながら書いてる。
「これ考えといて」と「これ調べといて」では相手にとって、負担が違ってくるでしょう?
現代人はモノが揃いすぎた生活を送ってマヒしているために、考える局面に弱い。
「調べればわかる」が増えすぎると慣れてしまい、考えるアタマがサッパリ働かなくなる。
そのとき一番みじめに思うのは、考えたくても考えられない自分自身ではないだろうか。
災害でスマホが通じない、じゃあどうする?考える。話し合う、協力しあう。
危険だからいっさいやらず人まかせ、ずっと待ってる、でも待ってられない。
ストレスは日毎に、そして暑さや雨、他人のちょっとした行動によって肥大化していく。
普段アレがあるから、アレがなきゃダメだ、用意してほしい。あればうれしい。
そりゃあればうれしいでしょう。ただ、状況が状況である場合も要求するのはどうか。
状況を受け止め、自分に受け入れるさせることって意外と時間がかかるんですよ、ほんとに。
自分の将来が、自分の稼ぎが、自分の、自分が・・・みんないまそれで生きている。
間違いではない、誰も救ってくれなくなったら最後は自分しかいないんだから。
でもこれもよく考えてみて下さい。自分のことだけをみんなが優先し出したから、
他人を救えなくなってきたんですよね、実は「自分優先」が冷めた社会の原因なんです。
家族5人に対して1つあれば、よかったものがみんなに行き渡った(テレビとか、電話とか)。
ビジネスの市場として、ひとりにひとつ欲しがらせるように仕向けてきたんですよ。
こうやってどんどん協力し合う機会が利便性によって失われてしまったんです。
売るために儲けるための戦略が、家族や社会の在り方を変化させてしまった。
わかるでしょう?話すこと、助けること、理解し合うこと・・・年配者なら自然に学んできた
いろんな機会を、私たち人間は自らが生み出した機械によって失わせてしまった。
大事なのは、私たち現代人はこの事実や原因を知ったうえでの、プラスアルファのチカラ。
あらがえないとあきらめきっている社会の流れに逆らってまでもやるべきことがある。
消費する側に自らを置いてしまうと、やってもらうという受け身が染みついてしまう。
自分は動けないと「思い込んでいる」だけであって、動こうともしない、その意識。
いろんなものがあふれて、便利でどんどんエスカレートしていくけど、
逆に、だからこそ、不便な状況でなにができるのかを考えなきゃいけないのではないか?
稼ぐ、稼ぐ、みんなカネカネ。逆に稼がない視点にもヒントは隠されていると思う。
私たちがまだ「動かし方を知らないやり方」が残っていると確信しているんですよ。
やってもらうことにお金を払う。それがいままかり通って常識になっているが、
お金じゃなくやってくれる気持ちはそれを受け取る人の何かを動かすはずなんです。
「やってくれたその気持ちがうれしい」と感じることによって、
その気持ちに対して、気持ちで応えたくなるのがかつての日本人ではなかったか。
モノやコトの組み合わせ方、人の気持ちの組み合わせ方。視点を変えてみるべきでは?
その昔を知り、体験してるのが「お年寄り」です。つまり「お年寄り」が体験してきたこと、
この利便性によって変質させられてしまう前の社会を知る世代が舵を取ってやれること、
次の世代のためにひと肌脱ぐ役割が実はあるんですよ。お荷物扱いじゃ悔しいでしょう?
人間の知恵と資力を持つお年寄りが、自分のことだけでなく未来のためにやる。
この意識は思っている以上に高いんですよ、ただ動き方がわからない。整っていない。
だから用意されたアイデアでしか、次の世代のために残してやれない。
他人の土俵に乗るのは正直、こころの底から気持ちは動かないもんです。
自分たちが話し合って、協力し合って、アイデアを出して実行していく。
まちづくりやコミュニティづくりに自分たちの知恵や経験、アイデアを反映させる。
これほどワクワクして、やりがいがあって、前向きに貢献できるものはないのでは?
お年寄りは確実に、我が子や孫の世代のために何かできることを欲しているんです。
それを叶えるために必要な、自然に前向きになれる集まりが各地にあればいい。
すぐにうまくやろうとしなくていい、そんな簡単に進む話でもない。
ただ、こういう意識を次の世代に伝えること、身をもって示してつないでいくこと。
やってみたらすごくおもしろいことになっていくのではないだろうか。
注意しなくちゃいけないのは、これまでいろんな人がやろうとして失敗してきた事実。
その原因は、すべてをうまくやろうとしてすべての意見を叶えようとするからなんです。
これは政治の問題と同じで、あれもこれもやろうとして、応えようとして前に進めない状態。
構図としてはいっしょ。だからこれまでの組織や常識では前に進まず失敗するんです。
知恵や経験を、意識的にこれまでと違う組織や土俵、違う常識の上に挙げてやること。
土が変われば、同じ水や同じ種でも花の咲き方、実のなり方が変わるでしょう?
既存の組織、土俵、常識にどうしても私たちはとらわれてしまう。
こうなればこうするべき、これでダメだったのならば、こうするべきところを変える。
意外にすら思う、常識じゃない違う組み合わせを試してみて、うまくかみ合えば、
私たちの社会はまだ見直せる部分がたくさんあるような気がするんですよね。
これは長すぎて応募できなかったもの。一応書き残しておきます。