ぼくらはいったい、どの時点で災害時の本気スイッチが入るのだろう?
確実に同じ国内であっても、温度差があって違うのはわかりますよね。
当の現場でも、スマホ片手にヤバイヤバイ、すげー!怖いって他人事に押しやる。
危機が迫るのもわかってる、恐怖感もある、それでもどこかで信じられない(たくない)。
防災意識って災害大国日本であっても意外と低いのかもしれません。
自ら意識を保っていくのは難しい。あまりに日常の快適が当たり前になってるから。
いわゆる途上国のほうが意識は高いかもしれない。まだまだ途中であって、
せっかく積み上げている段階のものを、壊したくない。だから真剣に向き合う。
日本は、というと…哀しいかな、ピークを越えてあとは維持か下がるかの運命。
すべてそろうという現実は、すべて失うという現実から目を背けさせる。
そろう現実とは、よりシステム化された現実でもあるんですよ。
システムに依存し、システムに入りたがる。たとえ縮小傾向だろうが見ないフリ。
システムの恩恵を受けながら、それが日常であるのが当然とばかりに振る舞う。
関東大震災に由来するという防災の日。その意識は体感した人とは雲泥の差でしょう。
交通網もシステムの恩恵があって、複雑ながらも高度に組み合わせ便利にした。
でも必死になってシステム=日常、の復旧をまずは目指すのだが、本当にそれでいいのか。
どうしようもない、やるせない状況に身を置くことで変わる意識もある。
一日やそこらで復旧しました、よかった!・・・で、意識も日常にすぐ戻ってしまう。
不便な環境に身を置き、そのなかで何かを感じることができないのはどうなのだろう?
いつか関東大震災のような状況が発生した場合、耐えられない状況が続いたら?
私たちはいくら頭でこうしたらいいと知ってても、経験や体が覚えているものに劣る。
むしろ私たちは大きな災害時に精神的な混乱から、さまざまなカオスを生むのでは?
頭ではわかっていても、からだは動かない状況は必ず訪れるでしょう。
すぐ復旧する私たちの日常は、災害を非現実的なものとして捉えさせてるのではないか。
復興に向かうときの気持ち、被災された当事者は本当に真剣だ。
関東大震災の体験者、戦争の体験者・・・わかるでしょう?そこなんです。
体験したからこそ、意識が高くなる。やってはいけない、守らなきゃならない。
いくらヴァーチャルでとか、知識やスキルでとか、そんなのはるかに凌駕した現実がある。
私たちはいま、災害に対して真剣にならざるをえないにもかかわらず、
やはり真剣になれるような、社会構造になっていないのだと痛感してしまうんですよね。