テレビとネットについてサラサラっと思うことを・・・
僕らはニュースをいま現在、どこで何で知るか?
ネット前とネット後で媒体が変わってきているのは事実ですよね。
でもいまだに速報性としてネットとテレビが、競うように争ってるようにみえる。
ネットは正誤問わず速報性を重視する。でもすでに勝負はついてます。
たしかにテレビが情報源の人もいるし、みんながみんなスマホじゃない。
お年寄りに至ってはいまだにテレビ、新聞が主要メディアに鎮座するが、
今回はとりあえずテレビとネットの構図を広い視点で考えてみる。
テレビや新聞の媒体は、プロフェッショナルとしての矜持がある(だろう・・・)。
私たちプロが、プロの視点で伝える義務とプライドがある。みたいなね。
ネット、テレビ。両者とも一歩でも相手の前に体を入れて、ヒジを入れていく。
「はい、ボクです!ボクです!ウチがお知らせします!」ってキャンキャン吠える。
しかしテレビくん、君らの第一人者的な立ち位置での振る舞いはもう違うんじゃないか?
「被ってる情報」だと感じる世代が、これから大多数になるとどうなると思う?って。
テレビや新聞の自身のプライドとバイアスもまた、容易にぬぐえないんだろう。
お年寄りはみんな演歌を聴く・・・そんな常識めいた偏見と似たようなもんかな。
グループサウンズやビートルズ、矢沢にサザン。いまの65歳以上はそんな感じかな?
彼らが好んで歌うのは、人間の機微を描くゆったりとした悲哀漂う演歌じゃない。
み~んな年を取ったんですよ。うわぁ~(恐ろしい)ってなりますが
ワタクシにとっては、お年寄りが演歌歌わないのは衝撃・・・隔世の感が。
たぶんこの感覚と似たような感じで、テレビとネットの関係は
数十年後、迎えるんだろうなと思いますね。いまのテレビで生き残っているかな?
取り上げ方や角度は、ネットと違ってひと工夫ほしいところ。
単なる情報としての結果や数字を知らせるだけ?違うでしょ?
一般人の私たちはそれほど多くのことに関心は持てない。
よしもと、韓国、列車事故、雨による自然災害・・・目まぐるしい。洪水のよう。
私たちは意外と垂れ流されてくる情報に親身になれなくなってしまっている。
あれもこれも、と消費しきれないままであっても、情報を受け取り消費してくれと迫る。
このテンポにすでに私たちが組み込まれて、歯車として情報の消費を担ってしまっている。
情報が遅ければイライラするようになり、間違えばそのミスを徹底攻撃。
この未来に何があるだろう?このテンポで気持ちよくふけって叩いて終わりか?
好きなことを好きなだけして、どんな些細な事も清く正しく潔く。互いを認め合おう・・・
これは人口のほんの数パーセント程度の論理で全部は無理。
みんなここ目指さなくていい。そもそも目指すには限界があるんだから。
いまの社会はムダな枝をすべて切り落とそう、剪定しようとする木のような。
よりよいものをつくるために、うまみを凝縮させるように実をならせようとする。
無駄な枝や葉っぱとして落とされた人らは、見て見ぬフリされても土にかえる?
そんなことないだろうよ、落とされた人はずっと下からにらんでるよ、たぶん。
ステータスを落とせない、いらんプライドがあってそれも捨てないで全部背負って、
腰曲がり切ったおじいおばあたちのように、助けてくれよ、当然だろ?とくる。
ネットもテレビも、こういう世界の手助けばかりしていて大丈夫?
行き来って行き止まりになるまで続けるしかないのかな?