日本人のメディアが中心にいる環境より海外拠点がいいのでは?
ゴルフの渋野、サッカーの久保など注目の仕方、接し方や手法そのもの・・・
はたからみてると、全然過去を反省して改善してない。
上が学習能力ないのか、伝統に染まりすぎるのかわかりませんが。
なんかいっつもありきたりでワンパターン。
不躾な感じもナカータやダーホンのときとなんら変わりない。
ナカータあたりから本人のメディアを持つ発信力ができてきたんですが、
あの頃2000年前後とはまた状況が違う。ダーホン(ケイスケホンダ)の2010年代とも
これまたちょっと時代が急速に動いて変わってきている。
2000年ごろはあまりにも勝手なイメージづけが多くて、嫌気がさしたんでしょう。
ナカータの真意をくみ取ろうともしないし、別の視点でみる努力もしない。
これはいまにも通じる部分で、島国文化まるだしなところもあるんですが(笑)
ダーホンのときも根本的に何も変わってなくて、視点が素人と同じでは、
メディアの役目もなにもなかった。彼の場合は闘いながら貫く点で、
ナカータとは少し違ったアグレッシブさがあったように思う。
レアル久保をみてると結局メディアは相変わらずなんにも変わってないんだなぁと
心底感じさせる。権威のある者の評価が欲しくて、すがるサマは20年前にみた景色。
あれから変わったのは、個人の発信力だろうけど、テクノロジーの進歩は平等で
メディアも同じように発信力と量で対抗して、再び台頭しはじめた。
個人も総量が拡大してるけど、メディアはもっと種類が増え、量も拡大させた。
そうなると結果的に個人が発信してもわいきょくされたり、言葉じりをとらえたりと、
なんにも変わらない構図を維持したままになってしまっているんですよね。
そして、圧倒的に量を増やした情報に一般大衆も右往左往が止まらない。
大衆も言いたくてしょうがないから、いろんな意見が挙がってくることになる。
メディアも量とページビューで錯覚させ、大衆の冷静さを失わせにかかる。
もともと決められない主体性のない国民性をもつ私たち。
メディアをなぜかいったん信じるということをやめようとしない。
ついついみてしまう心理をメディアに巧みに利用されてしまう。
レアルの久保はもう日本人でないような自信と自分の意思があるから
メディアの思惑に流されることはないだろうと思う。その上をいくでしょうが、
問題はゴルフの渋野さんですね。なんかをあさるように、むさぼるように
メディアや広告業界の餌食にされてしまうのではないかと危惧してしまう(笑)
素直さや笑顔は好感もてる「素材」ではあるんだろうけど、
無意識にハードルを勝手にあげまくるバイアスがかかるでしょうから、
プレッシャーが半端ないと思う。日本ではプレーも生活もしづらいのではないか。
メディアや大衆の「エサ」になるくらいなら、拠点を移したほうが得策かと思う。
やっぱりメディアも大衆もだけど、過去をまるで反省してないから同じ失敗するでしょ。
変に期待をかけて、勝手にガッカリして、気に入らなくなったら捨てる習性をもつ。
ちゃんとサポートするスタッフが体制づくられるんであれば、
本気で守ったほうがいいのかもしれない。
ヘタにビジネスを意識しすぎると協会も集客とかスポンサーやらで、
また平気でつぶしてしまうのではないか?
どうせまた、素知らぬ顔でメディアも大衆も
新しい消費のエサを探し回遊するだけだから。