自分を許すのと、ごまかすのは違う。
言葉でわかっていても自分のなかで処理するときに
どっちも「ごまかす」になってしまってたりもする。
「ゆるす」ほうは努力など、やることやった上での、やり尽くした先にある。
「ごまかす」は本当はこうしたほうがいい(かも)と、見えていながらも目をツムル。
「ごまかしてる自分を許す、この状態が人間だもの・・・」
自分をなぐさめ、タイトな態度を外には向けながらも、内では自分を許す。
でも許さない社会や世界も押して突き詰めていくと、それはそれで、窮屈になる。
そう、ほんとにバランスなんですよ、あっこれちょっとヤバいなと感じたら
逆に振れるように動いてみる。このバランス感覚。
いまの時代はたぶん逆に振ってバランス取り始めなきゃならない時期。
正しいとか合理的とかそんな目先のことの、もっと先の先。
この道を行けば、どうなるものかわからないわけではあるまい。
「リャンシ」どころじゃすまない。満貫縛りになる社会はいかがなものか。
みんなを助けるピンフのみ1000点がどんなに平和だと感じるか。
麻雀知らない人はごめんね(笑)
ただ自分の行為を正当化したいがため、有利に立ちたいがため。
私たちの人生はその目先だから、目先を優先して何が悪い!
と逆ギレで、のたまう。
しかし、その積み重ねでここまで老朽化し、虚無化してしまった。
その負担を強いられるのは我が子や孫の世代。
人生は時に矛盾したっていい。その先の未来で正誤の判断がなされるとしても、
あのとき正反対の意見も聴いていたから、少しだけ気持ちもわかると、
未来の人間に思ってもらえる余地を意見とともに残しておきたいと思う。
ただただ、可愛がっている目先の孫、可愛くて仕方ないだろう。
しかし、彼らが将来、なけなしの財布から一個1000円のおにぎりを、
グラム数どんどん減らされて、それでも買うしかない未来で、
消費税分20%の200円にもため息つきながら、買う。
1分で済まして、ただ過ごすだけの休憩をやり過ごして、
時給1200円(最低時給)の仕事に戻るとしたら・・・
そんなんで生きてるとしたらどうだろう?
それでもゴメンねといいながら、ぬくぬくと老人が守られながら生き続ける未来を
私たちはいまのうちから解決できるように、考え抜いているだろうか。
ワタクシは真剣に考えたい、考えだすとキリがないが、それでも考えたい。
それがワタクシが未来のためにできるせめてものことならば、
なんでこうなってしまったんだと言う前に、やれることをやりきりたいと思う。
未来はそうやって、チカラを温存しないで出し切って走って、
バトンをつないでいくべきではないか。
次の自分の試合なんかどうだっていい。
精一杯走り切り、力を出し切ってみたい。そして、
私たちが余力を残さず、できることを考え尽くして、やりきってバトンを渡す。
日本人はなぜリレーが得意なのか?
違う意味でコツを見出せないはずがないでしょう。
やれると信じて前に進む雰囲気をつくっていくべきです。
ちゃんと全速力で走って、バトン渡すことは社会全体でもできるはずですから。