模倣の終わりと、脱却にむけた日本人の戦略。

 

本当の意味での地方分権を大衆レベルまで落とし込むには

 

どうすべきなんだろうか。

 

ネットでつながってしまった時代になって、

 

逆にかなり難しくなったんじゃないか。

 

 

地方も都会と同じ(おんなじ)ように・・・したがるしたがる(笑)。

 

これが代々刷り込まれてきた、日本人の意識の根幹にある優先順位。

 

ホントは自主性をもち、自分から動いて、オリジナルな発想にあふれ、

 

取り組んでみればいいのだが、大衆レベルではみんな左右確認・・・

 

 

左右確認して首振ってるのか、否定で首振ってるのか、

 

そもそもがその首振りが自分の意思なのかも定かではない(笑)

 

さらに言うなら自信をもっていいのかどうかすら、ためらうメンタル構造。

 

 

そんなことない、地方だってオリジナリティあふれる展開をしてるよ?

 

という人もいるだろうが、それは数百人、数千人単位くらいの動き。

 

いわば、大衆ではなく、小衆レベルの動き。

 

別に馬鹿になんかしないし、するつもりもない。それも大事。

 

 

でも大衆レベルとは、おそらくある程度の規模以上の、

 

市町村単位くらいの数十万人、数百万人のレベル。

 

このレベルにまで上げるとなるとかなり難しい。

 

ほんの少しの隙間の時間さえ待てない現代人。

 

彼らを説得する猶予はそれほどないのかもしれない。

 

 

オートマチックな感覚になるまで世代を重ねていく、

 

そのくらいの時間が必要だろう。

 

祖父母から父母、子、そして孫まで。

 

大衆レベルまでと呼ぶには、

 

このくらいみんなが共通した共有意識を持てるくらいまで浸透しないとね。

 

 

ドラえもんやサザエさん。そのレベルまで。

 

浸透しやすい、シンプルであまり考えなくてもよい方法として、

 

虎の威を「真似る」方法がよかったんでしょうね。昭和時代は。

 

 

大衆レベルにまで浸透させるには、シンプルでわかりやすくが基本。

 

そして金太郎アメ状態を日本全国に、いたるところに展開できること。

 

さらにこれが世代を超えて、共有できるくらいまで時を経ないと完成しえないこと。

 

 

日本が戦後形づくってきたものは、いい意味で全体をまとめやすかった選択。

 

意思があまり浮かんでこないような、浮いても水面には顔がみえない状態。

 

大衆までに及ばない小衆レベルは出ては消え、淘汰され続ける。

 

ちょうど、体臭という存在に消臭を掲げて必死で向かっていくのに

 

大きな体臭の前では、いっときの消臭は気休めでしかないような。

 

 

でも、あまりカネかけるのもアホらしいくらい露骨ですよね、消臭ビジネス。

 

多少の汗臭さも気にしろ、そしてこれを買え、かかさず買え、使えと(笑)

 

除菌消臭をうたえば、それなりにヒットする。商売上やめられませんでしょう。

 

清潔さを保てば保つほど、ストレス耐性が低くなる逆・社会貢献してますよね。

 

まぁある種の戦犯です。脱線しちゃいましたが・・・

 

 

自分のニオイはまだしも、他人のニオイは腹立つんです。

 

この世に存在することすら、否定するくらいのリアクションを相手に露骨にみせ、

 

うそーん、信じられない。目をひん剥いたり、眉間にしわ寄せたり、必死の抵抗。

 

他人に対して「消えて存在そのものもなくなれ」って思うとき、自分でもあります(笑)

 

これも昔の人にくらべると我慢できない人間になってると思います、残念ながら。

 

それと、存在感無くして過ごす無難な人間の量産につながってるのかもしれませんね。

 

 

目立ちたいけど、目立ちたくない。

 

許してほしいけど、許したくない。

 

自分の可能性を信じたいけど、信じられない。

 

みんな失敗すんのを怖がって、なんもしない。

 

これだとどの業界もなんも変わりはしないのですよ。

 

出る杭になりましょう、そして突き抜けましょう(笑)