高校野球の投手問題もどこに視点を持っていくかで分かれる。

 

相変わらず張本さんは「貴重なご意見番」でございます(笑)

 

みんなが気持ちいい、「そうだそうだ船」に乗ってると見えないものもある。

 

耳ざわりを排除したい願望もわかるが、別の視点に気づく意見でもある。

 

 

気に入らないものは、なくせばいい。

 

これを当たり前に叶えていると、どんな局面で決定的な違いが出ると思いますか?

 

人間生きてると気持ちのいいことばかりではありませんよね。

 

すんごくイヤなことや、キライなことやその状況下に

 

自分を置かざるをえない、耐えなきゃならないこともある。

 

 

そこです。そこで差が出るのが人間のみえないチカラの差。

 

「自分がやりたいことだけを都合よく伸ばしたい」

 

「そのために障害になるものはすべて排除したい」

 

すべてのことにそういう思考が無意識に働いてしまう。

 

 

古い人間の意見にはその経験上たどり着いた貴重な見解や知見がある。

 

これは私たちが経験しろといっても経験できないシロモノであるのは間違いない。

 

好意的に捉えれば、なるほどそういう見方も出来なくはないんだなと、

 

私たちは知ることができる。そんな貴重な機会でもあるんですよ。

 

実体験の経験知による意見は一番重い。それは古い人も今の人も同じ。

 

 

投げぬいて、やり抜いてを経験した人やその人を知る人の言葉は重みがある。

 

人間やればできるんだということと、将来に備えてのリスク回避。

 

難しい問題です。結論が正しかったかどうかはその時点ではわからない。

 

人によって違うし、相対的な問題でもある。

 

でも、正しくなかったとしてもそれを受け入れ、人生を修正していまがある。

 

そのいまの自分を否定しなくなるように、年月は人に寄り添ってくれるのだと思う。

 

 

昔は日程の先に、投げ続けたその先に、

 

将来の人間像やプロ選手としての行く末まで、

 

見据えたものではなかったはずではある。

 

そこまでは考えてないでしょう。

 

 

ただ、そうやってやり抜いた人間が結果的に、人生の糧にしている部分もある。

 

あれだけ厳しい状況をつらくても耐えてやり抜いたという経験。

 

この点に集約させれば、まったくの無意味な常識外れではない。

 

 

ただ一人のためにすべて他の大勢が犠牲を強いられるというのは、

 

近年いろんなマイノリティへの清く正しい差し伸べ方にも通ずるものがある。

 

誤解なく言えば、マイノリティを排除せよではない。少数派という意味で。

 

ただ一人を救うために、大勢が犠牲になることもあるし、

 

その逆で大勢を救うために、ただ一人が犠牲になることもある。

 

 

みんなを救おうとし始めて、社会全体が息苦しくなってるのも近年の事実。

 

「やらなければならない」ことがどんどん増えていくこととどう向き合うか。

 

ホンネではすごくめんどくさい。でも建前上その姿勢を見せなきゃ。

 

実は内心ではこんな思いの人も多いはずだ。

 

 

ましてや、すべてがうまくいっている人にとっては「こころの余裕」がある。

 

すべてではないまでも、人生がキラキラかがやいている(ようにみえる)。

 

だから正論もキラキラと、屈託のない、屈折の無い正論に聞こえてしまう。

 

この余裕には、社会的な余裕や経済的な余裕も含まれてるだろう。

 

それがない人も当然たくさんいる。むしろそっちがマジョリティ、大多数だ。

 

 

その人たちは成功している人を羨み、次第に妬み嫉みに変わっていく。

 

この発露がいまのネット社会の闇ではないのか?

 

それでも自分で受け入れ、なぐさめ、割り切り、また前を向いて歩んでいく。

 

ネットは表向き、正論には「そうだそうだ船」に乗っていくが、

 

これは正論という意見に対しての「そうだそうだ」であって、

 

いざ自分が同じ立場の有望投手以外の立場ならば?

 

むしろその方が私たちには現実的ではないだろうか。

 

 

ダルや長友らの一部の成功者と、その他大勢の我々一般市民。

 

正論に同調はしても、自分の「からだごと」同調してるわけではないでしょ?

 

何も今回の野球だけでなく、世の中ありとあらゆる、至る所にあふれる正論についてです。

 

 

この正論にOKを出してしまうと、世の中全体、立場の厳しい余裕のない人にまで及ぶ。

 

山の上はさぞ気持ちいいでしょう、しかし裾野や土台に負荷が半端なくかかる。

 

私たちは山の上(正論)ばかりを見ても仕方ない。

 

私たちは全員が、みんなが平等に山の上には登れない。

 

それをいつか受け止める日がくる。

 

まだまだ世の中、正論が強い。強すぎる。でもそう遠くないうちに、

 

社会全体も受け止める日が、現実を受け入れる日がくるのではないか。