ふざける。大事なことですね。

 

ふざけるな!というものの、ふざけないとちょっと場がカタイ。

 

もちろん、いろんな「ふざけるな!」がありますけどもね。

 

双方の共同作業なんですよ、仕掛けて、乗って、許して、笑う。

 

 

近頃はわりと、自分も相手も「完成品」を披露する文化が根付いてきている。

 

すでに自己完結しちゃって、乗らせない、欠点をみせないみたいな。

 

あんま、おもしろくないですよ(笑)、そんなんじゃ。

 

 

本人らはこれがカンペキと悦に入って披露してくるんですが、

 

相手に参加する「隙」をみせることも実は大事なんじゃないか?と。

 

たぶん、参加したい欲求が相手にもあって、頬を緩めて「好き」になる。

 

しかしいまは、参加させろよのウズウズが発散できない世の中になってるようにも思う。

 

自分の周囲だけの世界じゃないですよ、社会全体のね。

 

 

すごくおもしろい視点だ・・・

 

気づいて書きながら、そして我ながらおもしろいな~って(笑)

 

ああ、ヤバイ・・・悦に入ってる(笑)

 

こんぐらいのダレる加減でいいんですよ・・・絶対に。

 

 

むかしの人たちも完璧にしようとしてたんだろうか?

 

頭のいい人らは完璧にしたかったんでしょうね、たぶん。

 

文句をつけさせない、つまり粗を見せないっていう気質もあったと思う。

 

 

でもたぶん、人からはすごいなぁと思われる反面、あまりに完璧でつまらない。

 

だから余計に粗を探してやる!って流れになっちゃって、

 

結果的に、周囲にあつれきを生ませていたのかもしれない。

 

 

周囲から愛される人っていうのはおそらく、カンペキじゃないんですよ。

 

どこか隙があって、でも愛されキャラで笑顔が自然で(大事ですね)、

 

なんだかわからないけど好きになる。そんな感じだと思うんです。

 

 

コミュニケーションがちゃんと成立してるからなんでしょうね、双方で。

 

モノは完成品でもいいんですが、モノに人間自体が寄せていってはダメでしょ?

 

人間は感性品(うわ、強引・・・笑)であって、互いに安心できるスペースを探してる。

 

 

失敗が許されない雰囲気って、すごく息苦しいし、周囲にも伝染しやすい。

 

人間が完成品を駆使して、カンペキを演じれば演じるほど、実は苦しい。

 

人間同士のホントの距離感を見失っていくんだろうと。

 

 

ご近所づきあいを例にしてみるとわかると思いますが、

 

マジメすぎて、失礼ないようにが強すぎて・・・

 

笑顔や自然なアプローチができず、形成されてきたのが

 

型通りの仕込まれた無機質音声コミュニケーション。

 

自然に笑える関係性が少なくなって、これもだいぶストレスになってますね。

 

これをまた、演じなきゃいけないから余計にストレスがかかる。

 

 

世間がやってる正すことの論調、怖すぎやしませんか?

 

だいぶ恐ろしい流れになって、もう笑えないレベルまできてるんですけど。

 

お笑い文化を弾き出したらたぶん、「日本人全員、アウト~!!」ってなりますよ?

 

 

ふざけられない世界には、たぶん未来はない。

 

大衆もヒートアップしてるから、いま火に油を注ぐのはなんの解決にもならない。

 

でもちょっとでいいから、ふざける→笑い合う、という隙を残しておいてほしい。

 

その隙がないと人は人を好きになれない。

 

なかよくを演じても、なかよくなんてなれないのではないか?

 

 

ふざけて、許すことができて・・・笑いがあって発散していたんですよ。

 

世の中をマジメ人間ばかりが支配すると、すべてに支障をきたします。

 

優等生が仕切りだすと、みんな周囲のノリ悪いでしょ?(笑)

 

そんな記憶ないですか?たぶんあれが一番イメージしやすい。

 

 

僕らは自分らで苦しい環境に追い込んでるって気づきましょ。

 

そのお手本はお笑い芸人だったはずですよ。

 

みんなあんなに笑えた人間だったはず。ふざけたことを笑えたはず。

 

 

変に正しいこと意識して萎縮させられてしまってるのがわかるでしょう?

 

変な話、宮迫さんくらいの悪さも許せるオアシスが社会にあっていい。

 

ますます息苦しくなるだけじゃないですか?