僕になんか、私になんかそんなのムリですよ(笑)
よく聞くあきらめのセリフですが、本当だろうか?
失敗を怖がってるだけじゃないの?
失敗を恥ずかしがってるだけじゃないのか?
私たちが勝手にこれしかできないと思い込ませている社会。
実は一番ポテンシャルをムダに喪失させてるんじゃないのかと。
彼らのいうムリ、ムダなんてカタカナ表記のカジュアルな感覚のものは、
本当の無理や、無駄なんだろうか。
やってみたら「できるかもしれない」ことや、「役だったかもしれない」こと。
人生なんて何が起きるかわからないでしょ?
今日明日、突然に死んでしまうかもしれないし。
むかしの人たちは、調べてわかっちゃうなんてこともそうそうなかったから、
出来るまで何度も失敗しながらやり続けてきた人がたくさんいたと思う。
ある意味でやるしかなかった、だからうまくなり、ポテンシャルを開花させる、
そんな人たちが多くいて、社会を活性化していったのではないだろうか。
便利にしてしまった社会で、都合よくさせるのは出来上がってる老人たちばかり。
そう、便利にしていいモノは老人相手の出番
可能性のある、のびしろの余地があるという意味での若い人たちには、
機会を機械に奪われてしまっているのではないか。
大きな意味での自分のポテンシャルを引き出せていない人が多いのかもしれない。
この目標への値踏みが低くなり、易きに流れて、成長しない社会になっているのでは?
自分になんか・・・って限界を決めるのは、「やれるだけやった自分」であってほしい。
事前に知ってしまう環境は必ずしも人を成長させるとはかぎらない。
そう思うとやれること自分にもまだ・・・
楽しみも出てくるし、光も自分に射せるようになる。自分の意思で動く。
だとしたら逆に、あえて情報を入れすぎないように自分自身が意識するしかない。
スマホの通知を無視する、あえて自分に厳しく接していくことが意図的に必要だ。
検索する前に、ちょっと自分で考えてみる。想像してみる。5分、10分・・・。
もちろん自分自身だけでなく、周囲もその視点を持てなければ意味がない。
便利さに矛盾するような時代ってなんなんだろう(笑)、そんなつもりなかったのに。
でもそれくらい人間って、自分に負荷のかかる環境を与え続けないと
ダメになるほど便利にしてしまった。この罪はものすごく大きい。
受け身体質を常態化させ、リスク回避ばかりをこころとからだにしみこませる。
最近の人間はだらしないなぁと感じるのも無理はないんですよ。
スマホに逸失利益を毎日、無傷で快適に奪われ続けていく。それにカネ払う(笑)
これはものすごく、重大な欠陥だと思いますね。