他人の悲しみにあなたも寄り添ってくれ。
冷静に考えたら、これはこれで恐ろしいことでしょ・・・?
ごく一般レベルの他人感覚にまで、取り締まり気分で入ってくる。
そこに正論で第三者が踏み入れるのは危険な気がする。
人間、度が過ぎることに自分自身で気づけなくなることもあるから。
「熱」が冷めてしまえば、なんでこんなことしたんだって思うのかもしれない。
でも正論のフィルター越しにしか、ものごとをみないから怖いんです。
結果的に、「見誤る」ということは当事者にもそして当然、第三者にもある。
第三者たる外野、世間一般の「無責任な人が責任を連呼する」のはどうよ?と思う。
この責任の所在をターゲットに突き付け、0か100に断定してしまう怖さ。
人間の感情的な反応、特に顔のみえない反応は人を別の意味でアヤめる。
でも、必ずなきゃいけないから1以上であり、20くらいでちょうどいい。
根本にあるのは、各自が自分を主張する場に恵まれなくなってしまった、
もしくはそういう場を自分たちの周囲のリアルな環境でつくれなくなってしまった。
そういうことなんではないかと思うのです。
酒場や家族、なんとなしに文句を言ったり、愚痴こぼしたりしていた場。
かつてあったその場は、ある意味でその場かぎりの発散感覚と、
自分も他人も割り切れていたような認識がある。
結構めんどくさかったりしたけど、結構重要な場だったんですよね。
いちいち鬼の首を取ったように、アピールするでもなく、
あえて残さない、酒は残ってしまっても、その場で済ませて引きずらない。
昔のオトナってそうだったんですよ、酒場の隅に置いて。
人に文句も言うし、今と同じようにぶちまける。
今よりも攻撃的で、刺激的な言葉で、より感情的だったかもしれない。
でもね、可視化されると言い逃れできない事態でバランスが崩れる。
SNSができるようになっちゃったことが悪になってしまっている。
それ言ったらおしまい、って感覚を忘れてしまったのだ。
危ういバランスのなかで、私たちは持ちつ持たれつで生きている。
あえて言わないでいることも後になって結果的には、丸く収まっていた。
「いまはシンドイかもしれないが、後になったらわかるよ。」とやさしい目。
中高年のそれなりの人生経験のある人たちは、そのことを知っている。
その争いの時点での双方の見方が必ずしも100%揺るがない正しいモノ、
なんてことはそうめったにあるものではないことを。
大事なことは、人間、間違うことは誰にでもあるということ。
学歴も経済的、社会的な格差も、なんにも関係なく、等しくふりかかる間違い。
その間違いをしてしまった人や組織を、地の果てまで追いやるくらい、
えげつない弾き方をしてしまう今の大衆心理。
それだけ何かにストレスを抱え、それを発散する手段が狭められている証拠。
代償行為のように叩き、ぶつけて発散する。
こんな社会にしてしまった代償は大きい。
背景にあるのは自分へのやりきれなさかもしれない。
吉本と宮迫、ロンブー亮ら芸人さん達との関係も基本は同じでしょう。
ホントのことまでは、世の中には伝わりきらないまま
その時点での一方的な見方のみで、推測で断定してしまう。
ひとつ決まった見方やイメージを植え付けさせてしまうと、
容易にぬぐえないほど、偏見を持ったまま大衆も見てしまう傾向がある。
こうやって世間は高みの見物で、追い込んでいく。
むしろストレスをぶつけるかのように。快感に身をゆだねるかのように。
たくさんの人に笑いを届け、有形無形のストレス発散に一役買っていたのに。
別腹でしたかね?(笑)
詐欺グループよりひどいことをしているのは、世間の顔のみえない声。
誰よりも専門的なわけなどないのに、専門家ヅラして気分良く叩く。
しかしホントのことまで伝わらないままで判断してるから見誤る大衆。
そして大衆は哀しいかな、反省しない。いっさい学ばない。
言葉を飲み込むこともなく、失敗のあと、思慮深くなることもなく、
また平気で軽口をたたく始末・・・。
メディアも大衆がおかしくなってる感覚には当然気づいているが、
ひとつ間違うと自分たちが標的にされるリスクがあるから迎合してしまう。
この負のスパイラルを抜けるためには、
第三者たる大衆が誤りを認めること必要なのではないかい?
すごくシンプルだけど、社会全体に一番効果があるのではないかと思う。
誤りを認めるのは、謝る行為だけではない。
静観すべき状況をキチンとつくることだろうと思います。