スマホやPCの読み込み待ちを5秒笑って見過ごそう。

 

余裕というバッグを抱えて、目線はあさっての方向へ。

 

アタクシ、こんなのではイライラしませんのですよ(笑)っていうスタイル。

 

余裕の体(てい)で振る舞うサマは、相対する人を温かみと包容力へといざなう。

 

 

全方向で快適さを守ろうとして、要求する者とそれに応えるエチゴヤたち。

 

なんでも買ってもらっても、まだダダこねる子どもと、その親みたいな関係?

 

いや、相互に依存しあってるから違うか。でも親子も究極は相互依存か。

 

でもやっぱり、エチゴヤたちがだましてる感、操ってる感が強いな。したり顔だ。

 

私たちの社会の構図の話。私たち消費者と企業との関係。

 

 

なんでも買ってあげられない家庭で育って、

 

その後、親になって。その我が子に対して

 

自分が買ってもらえなかった当時のこともあり、

 

さみしい思いをさせたくないあまりに

 

つい買ってあげてしまう。手を差し伸べてしまう。

 

昭和から、平成と急速に強まってきた傾向ですね。

 

この家族の構図も、「消費者と企業」のそれと変わんないのかな。

 

 

これをしょうがないよと、そのまんま常習化して正当化。

 

クドイですけど、正当化してからの常習化ではない。

 

ダメだと思う気持ちがありながら、常習化してしまい、

 

周囲と比較して最終確認してから、正当化へステップ。

 

 

自分を抑制する美学をお持ちでない?(笑)

 

でも難しいかな・・・便利なものがあって、買えるなら買っちゃう。

 

便利さを知っちゃうともう簡単に戻れない。

 

マイナスが自分に降りかかることすら、嫌がる。未然に防ごうと必死になる。

 

現実そうなったとしても、たいしたことなかったって思うことなのに。

 

 

貧乏や不自由だったからこそ気づいた、身についた気持ちや精神力もある。

 

伝えたいけど伝わらないね。第一、いまの自身の環境下では説得力がない。

 

年寄りが便利なものに囲まれて、若いやつらに努力せぇよ、と言う。

 

若い人はいまのサマを見てるから、どのツラ下げて、と思うでしょうね(笑)

 

そこまでの想像力は期待できませんって(笑)

 

 

これはその環境でしか、身につかなかったのかもしれないと思うと

 

理論的には、その環境下に身をおくしかないのかもしれない。

 

極端にいえば、災害等でなんにもなくなってリセットかからないと、

 

姿勢という意味では人間、正せないのかもしれない。

 

 

易きに流れる人間サマが、自ら負荷をかけるのは望みが薄い。

 

「精神と時の部屋」的な人工的に負荷をかけて自分を律する・・・

 

ないかもなぁ。

 

 

なんでも満たした人なら、究極の選択で自分を鍛える側に回るか・・・。

 

筋トレして自分をビルドアップするのも、モテたいとかそんなんじゃなく、

 

何かを課していかないと、自分がなんか弱くなってしまう

 

そんな恐怖への抵抗だろうか。

 

自らすすんで自分に厳しい環境を与えるなんて所業は、

 

これからますます難しくなっていくでしょうね。