日々の生活で意識してなきゃ忘れちゃうなぁ、慣性の法則なんて。

 

最初にタイトルの「感性」について考えて、そういえば「慣性」の法則か~って(笑)

 

そんなんあったなぁ~くらいの感覚。どんなんだったか後でみる・・・

 

このネタも一度書いてるかもしれない(笑)、でもそれだっていい。

 

何度も書くほど大事なことだから。

 

 

なんでもかんでも調べてみりゃわかるものがあると、調べてわかってしまう。

 

このドーピングをしないことを意識して生きるのがアナログ人間。

 

なるべくね。極力。まったくドーピングを排除するのは無理だから。

 

 

年寄りも環境を変えすぎる方へいっちゃうと、依存が強くなってしまうし、

 

自分への不具合を危惧してるんですよ。だからあえて入れないようにしてる。

 

のみこまれてしまうような気がして、こわいんだと思うんです。主体性もなにもかも。

 

自分のことは自分でしたい、感じ取りたい、そうしてきた人生があるから。

 

 

ここを変えられたくないんです。この感性には容易に変えられたくない人生が、

 

その重ねた年齢の数だけの経験と、自分だけの人生がメモリーされてる。

 

これをデジタル化されたくないでしょ?古いものは古いものなりの良さがある。

 

このデジタルはアナログのすべてを無にしてしまう可能性すらあるから。

 

そこに気づく感性を失いたくない。時代の流れの慣性に乗りたくない。

 

通してみた自分視点での、失いたくない大事な気づきが絶対にある。

 

 

歓声、管制、閑静、官製、喚声、官制・・・変換だけでもいろんなカンセイがある。

 

自分のこころが主体にあるものと、そうでないものを交互に並べてみた。

 

歓声、閑静、喚声のほうが、感情的でより感性でこころが動くアナログ。

 

じゃないほうは、クールでスマートで、慣性で「こなす感」が強い無表情、無感情。

 

アナログびいきな感性だとこうなっちゃうのか?(笑)

 

 

デジタルにこころを寄せると、あれもやりたいこれもやりたい、やってくれ、やってほしい。

 

いろんな欲にスキマなく、際限なく入り込んでくる。もうウイルス扱いだ(笑)

 

こうすればこうなる。でもこれもすぐほしい。これを気持ちよくやりたい。便利にやりたい。

 

まぁ一瞬ではあるが・・・デジタルに触れる人は、笑顔になる。ほんのひととき。

 

「なんで?便利だし、キレイだし、気持ちいいし。いいことだらけでしょ?」

 

 

でもね、それが当たり前になると満足できなくなる。エスカレートしていく。

 

ここからのイメージはもう、想像できるでしょ?

 

そういうワナが人間と社会がハマるように仕掛けられてる。

 

じわじわと「許さない社会」を形づくる。

 

 

ウイルスであり、ドーピングなんですよ。

 

人間にとっては、ほどほどにしとかないと駄目になる。

 

これがデジタル「じゃないほうの世界」を大事したい理由。

 

 

アナログ派は自分のなかに、まだ活きのいいセンサーがあって、

 

そのセンサーが総合的に判断して、危機感で排除しているんですよ。

 

これを取り入れたことによって、生じる1歩先だけでない、もっともっと・・・先の先。

 

そこを視野に入れて考える想像力があるから、わかるんです。

 

 

もっといえば、容易に取り入れたあと自分がどう変化してきたかを、

 

自分の過去において、経験上知っているから。

 

その経験上、反省すべき視点を知っている。

 

目の前だけみれば、アナログは古いかもしれない。

 

 

いつの時代も新しいものは新鮮でおもしろく、目移りさせてくる。

 

目をくらませるようにまぶしく、先の先を見通せないくらい強い光。

 

年寄りは総じて、その光を経験してその後、光が失われる展開を経験で知っている。

 

年寄りは経験値だけ高いのではなく、経験知も高い。

 

むしろこっちの知に価値がある。

 

 

年寄りたちをお荷物扱いしてはならない。

 

あの経験知を活かすも殺すも私たち現役世代の大事な役目。

 

まだまだ淡いけど、豆電球だけど、未来をやわらかく照らせる。

 

そういう社会の動かし方で、アプローチを仕掛けていくんです。

 

ちょっと角度変えるだけで、まだまだよくなりますよ(笑)