大きな意味で「1人の利益より、100人の利益」

 

ひと昔前までは、これを正義としてたのだと思う。

 

 

100人にとって利益のある正しいことであれば、

 

1人の不利益は、甘んじて受け入れてねって。

 

そういうところがあって暗黙の了解だったような。

 

この手の不利益は各自が「なんとか処理」してねっていうね。

 

 

たぶん、100人の利益を優先していかないと、

 

社会「全体が」前に進まなくなるから。

 

偉い人たちはいつも選択を迫られている。

 

救えるものならみんな救いたい。でもできない。

 

一般市民には想像もできない苦しさもあるのかも。

 

おそらく、私たち市民レベルより確実に

 

より広い視野でその選択の可否を判断しているはずだ。

 

 

私たち市民レベルはどうしても自分やその周囲の視点でみる。

 

全部を視野に入れると処理しきれないのも知ってるから。

 

そして声高にクリーンであれ!と社会に叫びながら

 

ポーズを取り続ける。正当性を自分が主張していますよ感を出して。

 

どうにもならない感情を誰かに当てがって解消している。

 

政治家はそのジレンマを抱える国民のことも理解している。

 

どうしようもないから他人に預けたがる国民性や、

 

その責任の宛先を探す習性も理解している。

 

ただ当てたいだけの、当て先を探す国民を憂う。

 

でも受け止めてあげてる感じもしないでもない(笑)

 

 

社会全体もこころの何処かに1人の不利益に対して、

 

悪いなぁと思う気持ちはある。

 

でもどうしようもない、キャパオーバーな状態の自分もいる。

 

大衆も自分と他人を天秤にかけて、救いたくても

 

小さな手では、すくいきれずに救えない。

 

 

ある程度、成熟した社会になる前まではそれで「通じた」暗黙が、

 

成熟してしまうと、誰かが個人の権利を声高に掲げて、波を起こし始めた。

 

この「1人より100人の利益」を優先している構図は世の中にたくさんある。

 

社会全体が前に進むために外形上、犠牲にしてしまっているものだ。

 

その矛盾をツッツキ始めたのだと思う。

 

 

私も救ってください。おかしいでしょ?おかしくないですか?と迫る。

 

たしかに理想だ。ごもっともだ。はい、そうですね。

 

その1人の主張は正しく、何の落ち度もない、正論であり

 

助けてくださいと懇願している。

 

 

政治家は世の中が安定すればこうなる流れもわかっていたはず。

 

だが明確な答えを提示できないまま、濁し続けるしかなかった。

 

たぶん「全部押し付けるな、キリがないんだよ!」って言いたくてもいえない。

 

そのストレスとプレッシャーも、私たちと同じ。むしろそれ以上でしょ。

 

 

私たちは必死で走っているとき、

 

競争でなくても真剣に走っているとき、

 

目的地まで走り続けることを無意識に選んでいる。

 

走ること自体を優先して、走り続ける決断している。

 

 

痛いところがあっても、わかっていても、走り続けるときがある。

 

「わかってるよ、でも前にいかなきゃ」って進む。

 

天災や人災・・・助けの求めを背に、振り返らず走り続けるときもある。

 

 

成熟した社会というのは、年を取ったのだとも見れるはずだ。

 

人間と同じ。若いと走れる。成熟して年をとると衰えてくる。

 

痛いところがたくさん出てくる。想像もしない痛さもある。

 

 

走っているのは私という単体の一人という視点でない。

 

私たち、という社会全体の姿をした、シンゲキの巨人。

 

ワタクシ自身アニメやマンガはもう卒業して、もう知る興味もなくなっているので

 

あくまでも、名称のイメージの例えです(笑)

 

 

走りながらも、衰えてきたあらゆる各所の痛みを訴え続ける。

 

みんな都合のいいこと並べて、訴え続けているのだ。

 

まだ走れるか?と自問自答しながら走り続ける巨人。

 

走れなくなれば私たち社会全体という巨人は倒れてしまう。

 

血を流しながら、腫れあがった箇所があっても走り続ける。

 

 

私たちは自分自身という存在でありながら、

 

巨人を支えている一人でもある。

 

どこかで覚悟を決めなきゃならない。

 

命や権利は大事だ。でも矛盾も受け入れなきゃいけない。

 

それが次の世代のため、私たちがすべき命題。

 

 

私たちの先祖たちもどうしようもない現実に

 

あがいても、壊れても無くなっても立ち上がって

 

前へと進んできたからいまがある。

 

その延長線上にある現代、いまこの時点は

 

人類史上一番、選択の難しい局面で、答えのない闘い。

 

 

一番必要なのは大衆が市民ひとりひとりが

 

100%すべて叶えることを望まないように自制心をもつことではないか。

 

何かの有事のときだけ世界から賞賛される自制心だけでなく、

 

平和だからこそ、無事だからこそ、自制心が必要なのではないか。

 

 

私たちは求めすぎず、叶えすぎず、受け止める。

 

そして自分で考える。決断する。100%を捨てる。

 

新しいバランスを見出さなくてはいけないのだろうと思う。