なんでもうまくいくようになると、うまくいかないことが悔しく、腹立たしくなる。
そうなると、うまくいかないのは誰のせいか?を考える。ほとんどの場合は他人にしとく。
自分のことを自分で責めるのは苦しいから他人にターゲットを移す。悪気なくやる。
赤ちゃんや子供がするみたいに(笑)
参議院選挙に向けていろいろと始まってますが、
政治家たちの選挙に対するヤリクチや意図もみんな退屈してるんじゃないのかな?
こういうプロレスを仕掛けていけば、こういう構図ができてパフォーマンスが成立する。
ここでのパフォーマンスは日本語的な意味での、やってるテイを演じることです。
その演じるものを毎度見せられる。言うだけ言ってなにも変わらないのも、
みんなわかってるんですよ。なんでもホントはおみとーしなんです(笑)。
おもしろいのはこのプロレスのプロセスにハマる自分たちを許しているところ。
日本人は好んでこの傘の下に入ることを認めている。
核だけでなく、なんでも誰かの傘の下。楽だから。人任せだから。
ルーティーンにはめる自分を認めているんです。むしろ心地よいのかもしれない。
それは生活を、ほぼなんらかのルーティーンで占める時間の使い方をしてしまっていて、
そのルーティーンがいつしか軸になって、自分が軸でなくなっているからなんです。
ホンネではものすごく退屈していても、楽しませてくれることを自分以外に依存する。
自分で創造したり、自分で自信をもってなにかを動かしていくというのは苦手。
与えてくれるものを評価して、ほめたりけなしたり、好きになったりキライになったり・・・
自分たちがやってること、政治家の揚げ足取りや足の引っ張り合いと同じことでしょ?
私たちにまだ残されている選択肢はあるんですよ。
自分たちが本当に自主性をもってやってみることによってどう社会が変わるかということ。
これ、まだ本気で試していないんですよ。みんなで本気だしたら楽しくないですか?
本気を出したいけど、出し方や出すための方法がわからないとか、
どうせ出したところで淘汰されてしまうから、流れに逆らわずなるようにしかならないとか。
自分をあまりに低く見積もりすぎてしまっているんです。
それもこれも、失敗したくない、恥ずかしい思いしたくない、危険を冒したくない。
そんでもって、これじゃなんにも変わらないってわかっていながら、先延ばしし続ける。
政治や選挙のしくみを変えるとか、外堀からいつも攻めて、まず制度ありきの発想。
この発想自体も実は、受け身体質を助長しているんですよね。
そういえば学生時代の体育の柔道、受け身ばっかりやらされた。ケガしないために。
守るけど攻められない。攻め方を教えてもらってないと自分では打開できない。
サッカーも日本人はそんな感じの人が多い国。そんな国民性の人が8割くらいいるでしょ(笑)
自主性を失った人たちも、実はみ~んな自分で気づいている人が多いんです(笑)
であっても、最初の一歩、二歩でさえ、手取り足取り、教えて欲しくてたまらなくなる。
そこはできない不安があるから。まず周りを見る。自信が極端にないんですよ。
失敗して恥かくのを極端に嫌って生きてきたから、失敗を笑えるほど肝が据わってない。
「わかってるよ、わかってるけど怖いんだよ、リスクとりたくないんだよ」
ってこころの声がいっつも聞こえてきますし、表情に出てますから。
若かりし頃、自信なく高度成長モデルに乗っかってポジション上げた年配層にしても同じ。
結局なんにもできないで、歳だけとるかたちになってしまうんです。
あれほど学生運動とかした人がいた世代でも心地よいシステムで人生を築いたために、
キバを抜かれてしまったんでしょうね。キバは残しておくもんですよ・・・
自分たちが時代をつくった感を自ら感じているかもしれませんが、
このシステムがあるがゆえの、いまの閉塞感であり、様々なひずみの根源ですからね。
歯車として機能することが目的なら、量産型システムに自分でハマりに行くのも否定しない。
でももう、そんなんじゃごまかせない時代になってしまい、同じ夢は見られないんですよ。
それぞれが自分を「プロとして」仕立て上げていかなきゃ、たぶん生き残れません。
個人も社会も、違いをつくれるスペシャルな存在、でいようとする心意気。これ大事。
最初から意識的に他人と違うポジション取りでそのスペシャル「かもしれない」才能を、
信じて磨き続けていく人生をワタクシは進みますよ。ギャンブルですけどね・・・
だって、才能ありますから(笑)