社会や他人、家族にまで。最近は無意識にアピールしてる人がいるのでは?
ワタシいいことしてるでしょ感。言葉でこの感じ、説明は難しいですね~。
なんか認めてもらいたくて、なんか評価してもらうことで安心したいんでしょうね。
でもなんとなく、それやっちゃダメな感じがするし、底の浅い感じがしませんか?
それが転じて、「ワタシ間違ったことしてないでしょ感」にエスカレートしていくのでは?
ふと思いついたのは、
流行は時代が回って繰り返すというのに、人の意識は時代を回って戻ってこないこと。
ファッションや歌なんかは、一周回ってまた再評価されることがあるが、
人々のこころの持ち方みたいな良さを、過去を再評価して改めて考えるようなことは、
言われてみたら無い気がしませんか?
まるでブリンカーやシャドーロールをつけた競走馬に前しか見せず走らせるように。
むかし、テクノロジーが現在ほどに進歩する前、人間もっと自分のアタマで考えていた。
無い知恵までも絞りに絞って、果汁を搾り出すくらいに搾り尽くしただろう。
そういう人々の積み重ねの歴史に対して、すべての人の歩みを
何もかも正しくそっくりそのまま伝えることは難しかっただろうし、不可能だった。
そのなかで、知ることがないまま、淘汰されたこともたくさんあっただろうなぁとも思う。
史実に基づく正確な記録もあるだろうけど、それは多少の修正とバイアスがかかる。
美化して描かれている記録もたくさんあるだろう。記録する側の裁量もあるから。
映像が残る時代も記録するということで、多少「演じて」いる部分はあるだろうし、
ホンネで何もかも記録しているとは到底思えない。
それでも人間の根源的な善悪の部分の背景を、特に悪の部分を一応、理解しながらも、
たとえウワッツラーな美辞麗句でも、大衆は、そうだそうだ!と同意してたに違いない。
しかし、現代はどうだ・・・。もうウソもマコトも気に食わないと徹底して許さない。
マスコミも群がり利用する。人をメシのタネにして人を食って捨てる酷いあり様。
それぞれの事情があり、背景があり、人生や人間関係がある。
それでも自分の意にそぐわないことは言い訳無用で、徹底排除の一点突破をはかる。
まるで自らのストレスをぶつけるがごとく。割ってもいい皿を割り散らかすのごとく。
そしてワタシ、正しいコトしてるので。ワタシ、失敗しないので。
一寸のほころびもみせず、完璧に立ち回ろうと目論む。
疑心暗鬼になりながら警戒するように周囲を見渡して威嚇する。
犬かおまえは(笑)
一瞬のスキを見せようものなら、一寸のほころびを叩き罵倒し、しゃぶり倒す。
誰かから命令を受けたわけでもなく、おのれの心の悪にチャッカマン。
正しくないコトやモノ、ヒト誰かれ構わず、匿名性を担保しながらシバキ倒す。
そして、こういうのですよ。
ワタシ、間違ったこと言ってないよね?と。
自分の子どもや孫に将来、自慢できますかね?おのれの人生をあり様を。
いまは意外と若い人より中高年がネット環境に次第に慣れてハケグチにしてる。
彼らは酸いも甘いも十分に知ってる分、老獪さをもっている。
少し直情的で、安易に見たまま聞いたままを信じすぎるきらいはあるが(笑)
余計なものを開発して、発明しちゃって、進歩させちゃって、広まっちゃった。
これはこれで世の中、罪深いことだなぁと思う。
ネットやスマホ。こんなのがない世界だったら・・・。
もう少し人間は温かみを忘れていなかっただろうなと感じる。
天災事変でも起こらないかぎりは、目を覚ますことはないんでしょうね。