モノゴトへの一喜一憂。何にでも言えることではあるが・・・。

 

不適切って言葉も見事にあいまいなもんですね。

 

誰にとって不適切で、誰が決めて、誰が許しの基準をつくるか。

 

 

日本人の悪いところがどんどん浮き彫りになっても変わりませんね。

 

たぶん適切な答えを見つけられないからだと思います。

 

答えを見つけられない私たちの社会は不適切ではないのか・・・?(笑)

 

 

結局、感情的な起伏に自分が沿うか沿わないかのポイントが大きいでしょう。

 

起伏があるのは理解している、しかしそこを補完しちゃう気に食わないことが乗ると・・・

 

この感情への補助食品を摂取するかしないか。大きな差が出ますね。

 

 

 

たとえば、車で運転してるとワガモノ顔でチャリンコが車道を走るのに遭遇します。

 

やや交通の妨げになる程度の、ポジション取りをして軽い渋滞を誘発してくれる人。

 

車が自分、自転車が相手。法律がどうとかそんな小賢しいことは論外のこと。

 

そもそも法律がどうこうとかの前の人としての在りよう。正論でなく気持ちの豊かさ。

 

 

 

自転車が若い人の場合、まず車の運転者という立場になっていない場合がほとんど。

 

だから相手の立場になった視点が持ちづらいというのはある。要は経験の有無。

 

しかし、ふつうに育っていれば自分が邪魔になってるなって感覚は察知できる。

 

それでも居直ったかのようにずっと妨げになる位置取りをし続ける理由は何だろう?

 

 

 

自分は間違っていない、自転車が車道を堂々と走って構わないんだという法律の根拠。

 

そこから動かないんですよ、自転車だけでなく気持ちも。振り幅が狭い人間性がみえる。

 

子供にありがちな教えられたことだけ頑なに守る。守ってる自分は正しい、間違ってない。

 

その判断の先のケースバイケースを考慮しない。たぶん、コワいんだと思いますね。

 

 

学校なんかで法律を守ることだけ重視させ、あなたは間違っていないのよ、ウフフ的な。

 

歩行者の事故とかがあって指導方針など、いろいろあるからだとしても、

 

もう少しお互いに協力しあう術を思い出してほしい。ホントはできるはずですよ。

 

世の中そんな自分の正当性だけ主張しても、うまくはいかないようにできてるんです。

 

 

こういうとき、こころにちょっとしたゆとりを持てる人がいい。

 

たとえやさしくしてあげて、やさしさを返してもらえなくても。

 

車道のクルマならば、ゴメンねの姿勢を恥ずかしがらずにチャリに示す。

 

意外とやれない人が多いですよコレ(笑)、手をちょっと挙げたり会釈したりでいい。

 

 

チャリならば、歩道に人がいなければ少しだけ入って、降りてみる。スピード落とす。

 

他人のために少し自分が譲るということに慣れていない人が増えているのも影響ある。

 

なるべくなら、気を遣ってくれた人へ「素直に感謝の意を示す」ほうがいい。

 

タイミング的にできないときもあるから、とお互いに「一歩先まで」理解できていれば、

 

「せっかくやってあげたのに無視か!!腹立つ!!」なんてことも抑えられる。

 

 

お互いがお互いの主張を通そうと、間違っていないからと譲らない姿勢がダメかな。

 

磁石と同じでプラスとプラスでお互い間違っていないんだけど反発しあう。

 

近づけば近づくほど、無理に主張を前に出していこうとすると、

 

抵抗力が強くなる、互いにね(笑)

 

 

 

何もくっつけとは言いません。

 

でもね、反発する力を感じない程度の距離感を意識するだけでちょっと変わるハズ。

 

一喜一憂のもう一歩先に、譲るこころや、許すこころ、思いやるこころがある。

 

便利になり、よく整った環境が当たり前になると、自分も他人もハードル上げる。

 

でも私たちのおじいちゃん、おばあちゃん、そのまたおじいちゃん、おばあちゃん達・・・

 

この人たちのやさしさをちゃんと受け継いでいかなきゃと思うんです。

 

 

 

日本人のやさしさが、まわりまわって評価されている時代です。

 

でもそのやさしさのイメージってのは実は50年前くらいの日本。

 

社会の抱くイメージって思っているほど速くないんだろうと感じます。

 

国内で生きる日本人にとって、最先端であっていまはこうなんだとしても、

 

社会に浸透してあらゆる世界の隅々に行きわたるイメージは、

 

まだ古き良き昭和のノスタルジックな、あたたかいかつての日本人の姿なんです。

 

今一度、その原点に立ち返り、見直すべきときではないかなと思うんです。