カタチを教えられるのと、見つけるのはどっちが楽しいですか?
近年は答えが溢れすぎていて、自分で考えなくなってしまいましたね。
これは本当にダメな兆候だと感じています。
ワタクシの考えでは、自分の考えや思うことを書いてみたいという気持ちが先に立つ。
他人の考えを知りたい、読んでみたいとは思わないんですよ(笑)
だから、あえてあまり情報を入れたくない。まずは自家製の、お手製のものを。
自分よりイイのを見るのが悔しい。自分の発想が読んだことで浮かんだんじゃないかと疑う。
でも情報にどこかで触れて自分のなかに蓄積されているのは意識してますけどね…。
自分が、自分が、ってのはよくないと思うのですが
協調性の「自分が」と自主的な、自発的な意味での「自分が」ってのはまた違うんです。
世の中、一般的に多いのは自分がオリジナルであることを求めていないけど
考えずに役立つ情報は欲しいみたいなスタイルが定着してしまいました。
これを追いかけることで他人と差別化がはかれるか?と自分に問う。
すると答えはわかりますよね、偏屈な仕上がりを迎えます(笑)
オリジナルは他人のバイアス(偏見)にかかって評価までの道のりは長く険しい。
ハクがつかないとポジショニングが取りづらく、上がっていかない。
でもこんな自分がキライではなくて貴重だなと思えるほどの特殊な現代社会。
みんなと一緒であることへの依存があるうちはプロフェッショナルではない。
何らかが欠け落ちた「フロヘッショナル」程度かもしれません。
風呂でくしゃみしてる感じ。イタイ感じの寒さですね(笑)
誰かが先に書いたことを読まずに同じ結論にたどり着くことも本当にある。
これは世の中に似た顔してる人は3人はいるみたいな話とまぁまぁ似てる。
人間がいろんな条件下で考えて、普通に考えてたどり着くところって
当然に同じ結論ってこともあり得る話なんですよ。
ただ、無意識に真似するのが日常になっている場合、自分で思考しなくなる。
すると他人の意見をどんどん知りたくなり、依存度が高くなっていく。
そうなってしまった人は、調べて書いたな?みたいな発想に行き着きやすい。
真似はうまくだませばマネーになるでしょうが、むなしいでしょう。
まず、おもしろくありません。自分がね。
知識とひらめき、インプットとアウトプット、暗記と思考。
世の中には対比に当てはめられる構図がたくさんある。
知識に依存すると、ひらめきを否定しがちになり、遠ざけようとしてしまう。
誰かによって公的にでも認められてないと信用できないなって感覚になるでしょう?
たぶん、無意識に排除しちゃって、リスク回避している。
知識の延長線上には無い、ハクがつけられるポジションをまずは探る。
そのルートは面白いし、楽しいし、やりがいがある。
自分の潜在能力をどこまで引き出せるか。リスクはあるがやる価値はある。
お金はないけどね(笑)。
ちょっと考えたらわかる「そう!そう!それそれ!」って共感がもてる内容を追求する。
文章もスキルにおぼれると個は消える。
最悪、あとで直せばいいんですよ。それくらい大味でいいと思ってる。
写真や動画じゃなく、言葉でこだわる。
じゃないとホントの意味でのプロフェッショナルの価値はなく
フロヘッショナル程度で平々凡々になり、頭一つ抜けられないと感じるから。
うまいけど弱い日本のサッカーみたいなね。
ナカータという突出した個から20年経っても何も学ばずに変わっていない。
自分の常識越しにみて、不快に感じるか、深いと感じるか。
いいんですよ、周りに合わせなくてもね。
ちょっと何言ってるかわからない(笑)