たぶん、どこかにまだあるんだと思う。
テレビで「踊る」シリーズの映画の放送してて、久しぶりに観た。
「踊る」はもともと連続ドラマ時代から観ていたので感覚はわかる。
ちょうど時代が「昭和」を引きずりながら、変わらなきゃを変に意識していく「変成」へ。
いま現在の視点だからこそ、見て気づくことがたくさんあるだろうと思う。
変わらなきゃいけないと思い込み、変に意識していた。
大事な思いやりや感覚を横に置いて、生き残るために見て見ぬフリした。
変に成った、平成時代だった側面が浮かび上がってくる。
ちゃんとやろうよという雰囲気とも、正しくやろうよという雰囲気ともちょっと違う。
せかされるような感じで落ちないように、引っ張られないように自分を守る。
でもなんだかすごく窮屈な世の中にしてしまったんだなと、いまさら気づく。
劇中では、冒頭でご存知、世陸(セリク)のカオがタバコをくわえながら歩くシーン。
タバコをふかしながら、署内に入る前に根本まで口惜しそうに吸いながら、
携帯用灰皿に入れるシーンがあるが、何かせつなく、何か笑えた。
別にタバコなんかで目くじら立てなかった社会が、研究が進み害が伝わると
急に怪訝そうな態度をとるようになる、そのちょっと前の時代のものだろう。
マナーを見直そう、守ろうよという機運と日常風景が複雑に絡み合ったシーン。
こうしなきゃいけないのはわかってるけど、ちょっと待ってよというね…。
そんなに急いで何もかも効率性や正しさを突き付けられても自分に馴染ませられない。
モノ扱いと正当性、使命感や倫理、でも人間らしくありたい葛藤が描かれている。
私たちがせかされて、急展開する日常風景に自分を馴染ませながら合わせていく。
その途中でどこかに置き忘れたであろう、人情味あふれる風情みたいなものがあった。
昭和の世代に生きた人はその風情みたいなものを肌身離さずにいるから世知辛く感じる。
そんなんじゃなくてさ、もっと人の気持ち考えようよって。みんな十分わかってるけど、
そんな急にゼロから100にして順守しろって言われても困るんだよなって感覚。
正しいのはわかってる。わかってるけどすべて遮断するように切り落とされる哀しさ。
いま思うともう少し、時間をかけてやり方を考えたり、機が熟するのを待ってやったほうが
よかったことがたくさんあったような気がするんですよね。
ちゃんとやらなきゃに逆らいたいわけでもない、でも言われてすぐ変われるほど
単純なことじゃないのに決断を迫られて、泣く泣く切り離した感情がたくさんあった。
その切り離したことによって生まれた見えない不満分子が社会には点々とあって、
年月を経て、歳も重ねて増幅して、気がつくとなんでこんな世知辛くなったんだろうと。
不満の根っこが生まれ、社会全体を含めて、各自が育ててしまったのだとしたら
泣く泣く切り離した感情の根っこもおそらく、残っているような気がする。
同じように育てれば、世代を超えてつないでいけばまた花を咲かせるような気もする。
この人情の根っこは大事にしなきゃいけないのは、みんな気づいてるんです。
でも変に成ってしまった平成時代の感覚によって、世の中の加速とともに閉じ込めてしまう。
嫌なものが「すぐ」嫌になって、「すぐ」遮断してしまう。互いの距離感がわずらわしく
遠慮と猜疑心と、心を預けられない、寄せられない不安を増幅させていく。
たぶん、なんかできるはず。絶対できるはず。
うまく言葉でいえない感覚は共有できるはず。
そんなこと考えてたら社労士業務なんかクソみたいに思えた(笑)
だから誰でもやることには興味がなくなった。
誰もやりそうにない、あきらめてるようなことに光をあててみることに興味が出てきた。
誰もやらないことを、誰かがやってみることによって気づく。
気づいて伝えて、浸透していくまでには時間がかかる。
平成時代のように、時間を惜しんで進めちゃいけないことに気づき
時間をかけて進めなきゃいけないことに、力を注ぐことも必要ではないだろうか。
映画にはいまをときめく、地位を築いてきた俳優さんたちの若いころが映る。
懐かしい顔もたくさん。あのころテレビもまだ元気だったなぁとかね(笑)
まだあきらめちゃいけないんじゃないかな。若い人たちに伝えて、つないでいくこと。
お年寄りたちが伝えていくべきことってまだたくさんありますよ?
楽なことや、楽しいこと、便利なことばっかりに浸ってる場合じゃないですよ(笑)
お年寄りをいい意味で動かしていく活動もしていきたいとワタクシは考えております。