自分の気持ちひとつで拓(ひら)くと開く扉はあるはずだ

ひきこもり問題がクローズアップされる今日この頃

八方ふさがりで現実から逃げてしまう人もいるが

8050問題など、現実は容赦なく一歩一歩忍び寄る



どうしたらいいかわからない、誰も教えてくれない

だから逃げるという構図から抜け出せずに悩み続ける

他人が自分の気持ちひとつで変われるというのはキレイゴト

そう感じるかもしれないが、扉を拓くのは自分でしかできない

開いて開けられるのはただの扉、誰でもどこからでも開けられる扉

でも自分で拓く扉を開けるカギは自分自身の手、しかない

唯一無二の自分自身の手で開けるしかないんです



自分自身がモノゴトを見る角度を変えてみたり

考え方や捉え方の視点を変えてみたことあるだろうか

このポイントを通過した経験があるかどうかで、また違うと思う

自分自身が動くことに無意識ストッパーをかけたままで

どうにかしてほしいと他力本願になっているのではないか

世間の偏見はどうしてもある、その前提で動くこと

理解してもらうのは簡単なことではないというマインドセットで動く

そして、最終的には誰かのせいでもなく、自分で自分を拓くしかない



たぶんここまでの人生でどこか、準備が行き届き、用意されたものを消費して

うまくレールに乗れた者と乗りこなせなかった者に分かれてきた

システムに自分を当てはめる選択をさせられてきた社会で私たちは生きてきた

考えなくていい、暗記してこなして、教えられたとおりやればいい

そうしてこの時代を生きてきた過去と現実は、いまさら変えられない



でも世間で人並みに生活できている者だって少しタイミングが狂ったり

アクシデントがあれば、もしかしたら…という展開が待ち受けていたはずだ

でも成功してしまうと人間は、いろいろ都合よく忘れてしまうもの

ただし、レールもレールで負荷はかかり続けている

どんなアクシデントが待ってるかわかったものではないが

レールはレールで腹をくくって生きているはずだ



運がなかった世代かもしれない、団塊ジュニアや就職氷河期世代の責任を

社会のせい「だけ」にしても仕方がないこと、これもわかってるはず

そして世間一般なんてものは思っているほど重い腰を上げたりはしない

つまり、見方が変わって味方になってくれるには何十年もかかるだろう

誰かに依存する心、誰かのせいにする心を捨てなければならない



世間も、すべての事情を知り、理解して反応しているわけではない

世間の立場に立って自分をその立場に置き換えてみればわかる

全部の事情を知って、理解して全部のことに正しく、間違うことがなく

対処できる時間とキャパシティーは誰も持ち合わせてはいない

自分が不遇をかこっていたとして、他人を責めても変わらないのだと

感じられるようになるのではないか



他人は他人で自分や家族、大事な人のため、自分のために頑張っている

自らを守る立場になり、得体の知れないリスクに対しては

血を分けた家族であっても警戒することもある

相手の立場になれば、その気持ちも理解できるのではないだろうか



おそらくものすごく狭い視野で、自分自身や他人や世間をとらえて

その偏見から抜け出そうとしないこと、これに対して

視点を変えて取り組んでみることが解決のヒントになるのではないか

もちろん正解はない、なにより正解を提示しても根本的な部分は何も変わらない

でも、ただ待ってるよりムダに動いた価値はあとになってわかると思う

ムダやムリを自分にあえて受け止めさせてみるチャレンジを楽しむまで高めてみる

どうせこのまま変わらないなら、楽しんで自分を肯定して生きてみてほしい




ムダなバイアスがかかってみられてしまうのでこんなことは書きたくはないが

ワタクシ自身も五体満足に生まれたわけではなく、好奇の視線にさらされ

人の目が気になった時代があったが、もっと大変な人はたくさんいると

両親にも励まされ、ひとつひとつ痛みを受け止めながら生きてきた

そして、時間の経過とともにこの程度で自分は不幸だなんて、思わなくなった



ムダに考えすぎるクセがついてしまったのはこういう生い立ちが影響してると

我ながら思うが、これもワタクシにしかない個性であり認めてあげると

不思議とポジティブに変わっていくものなんです

こんな経験してる人間、そうそういないと面白がれる自分に会えます



ワタクシは自分が気づける視点とアイデアを言葉でアウトプットし続けたい

誰かのためになるなら、否定されようが何されようが、社会に貢献していきたい

自分の可能性や才能を拓き続けたいと思う、そして実現できると信じている

こころの底からあとは楽しんで自分だけ、自分だけをおもしろがりたい



私たちは、どこかで世間並を無意識に基準にして自分も他人も評価していく

そのバイアスは一生かかっても外れないかもしれない、偏見とはそういうものだ

少しのすれ違い、少しの思い違い、少しのタイミング違い…

世の中にはこの少しの違いに目を向けて目盛りを調整する時間も

キャパシティーもなくなってしまった



でもそのズレって見る側でも見られる側でも

自分が視点を変えれば目盛りを調整できたりするものです

とりあえず、負担はかけると思うが殺すのはもう少し待ってくれと

頼んでみるのも一考ではないかと思いますよ

開いてみせるのはまず自分から、そうしなければ相手も開きませんし

その先にある自分も拓けないのではないかと考えられませんか?