「いい」と「良い」って絶妙に違いますよね
「いい」ってのは素直な感じで、善悪ともに表現に使う
悪はイメージしにくいと思うが、一般に悪いと言われることも
自分や世間がちょっと、許しちゃう「やんちゃ感」に使う
「そう、そういう人なんだよ、笑」ってときの肯定の意味の「いい」
昭和時代には芸能界とかだけでなく、世間一般にもあった感覚だ
これを見る側が「寛容さ」ととるか
「あいまいさ」「正しくない」ととるかで
時代はまったく異なったものになったのが平成時代だろう
「良い」を正しいことのみに集約させていき、プラスの部分のみを
社会にあふれさせようとしてきたのではないだろうか
人はどの時代に生きていてもプラスだけでは逆に窮屈になるのを
生きていく過程で体感してきたはずである
長年生きていれば、酸いも甘いも乗り越える術を身につけていく
たしかに嫌だったかもしれない、マイナスはなきゃないほうがいい
しかしマイナスがあって乗り越えてきた自分と同じ経験を
次世代に「学ばせる余地を残す」ことも大事なんではないだろうか
すべてを「良い」ものに正したくなるのは、わからないでもない
そのほうが「いい」と感じられる部分が大きいからだ
さんざんこのブログでも言いつくしてるが除菌、消臭ビジネスと同じで
「良い」ものにすべてを集約させていけば完全体になれるとでもお思いか(笑)
人間ってのは、きったないこと、くっさいこと、わるいこと
迷惑なこと、失敗すること、全部どこかでやっちゃうもんなんです
それがあって心と体の免疫力が鍛えられ、成長していくんでは?
プラス、プラスの効果だけでは成長しないのはオトナ世代は
重々、理解しているでしょう
完全体になろうとして、なれずにこぼれ落ちた人が
何かと話題になっています
キレイに正しく、気持ち良く…「この手の欲」にまみれる社会が
可能になってしまった、便利になってしまった
ビジネスも世論もすべて、その方向に乗っかっていく、気持ち「いい」から
だからこそ、いまの私たちは矛盾であっても、より高度な判断が必要で
マイナスを経験させない世のなかではなく、経験させる余地を残しておく
許容する範囲を可能な限り社会に示しておくことが必要なんではないか
忘れてはいけないのは、叶えられることが増えすぎると
ほころびができた途端に人はものすごく、もろく崩れさってしまうということ
失敗したくない、させたくないをどんどん上塗りしていくが
正しさの強要が、一度の失敗を責め立てる社会が確実に存在感を増して
そのみえないストレスを抱え続け、個人を晒され、糾弾されていく
いまの私たち、現代の社会では-10から0に戻す加点方式を認めずに
0より下には下がらない、下がってはいけない社会だと設定してしまった
一生、ずっとずっとプラスに加点し続けなければ脱落してしまう
マイナスになるグレードダウンは許されず、常にアップグレードを要求する
スマホのごとくアップデートを繰り返さなければ生きていけないと
錯覚させられてしまっているのではないか
私たちは機械ではない、失敗も成功もする
すべての酸いも甘いも嚙み分けるのではなく、受け止めて乗り越える
失敗を許容する部分は、絶対不可侵であるべきなんではないかと
ずっと、ずっと思っているんです、伝わらないけどね(笑)