私たちはどちらかというと未来を思うとき
過去や現在のあり様からその延長線上に見て想像する
ごくありふれた自然なオートマチックな感覚だろう
では、視点を変えてみるとどうか?
未来の10年後の時点を軸にしてそこから逆算しながら
ものごとをデザインしていくことはできないだろうか
こういうことができたならば、という前提から逆算する
こういうことをしたい、でもいい
できるとしたら何が必要で、何が不要となるか
法律や定説、固定観念、すべて無視して自由に発想する
このほうがポジティブに考えられるのではと感じる
過去・現在を軸として未来を想像することが多いでしょう
でもよく考えると未来を過去・現在から思考を展開させていくと
どうしてもネガティブな発想になりがちです
いま現在のあなたや私の基本軸は、過去や現在から成り立っているはず
これから起こりうる未来のことについては
「まだ確定していない推測」にすぎないともいえる
反発があるから、コンプライアンスがあるから、負担がかかるから
すべてネガティブにマイナスを排除しようとする意識ばかりはたらく
そうなんです、わたしたちは過去や現在の視点を基点として
ものごとを結果的に、ネガティブに発想しがちになるんです
ならばいっそのこと、逆転の発想をしてみようと
未来という時点に基点をおいて、そこを起点として逆算していく
イメージをしていくなかで過去や現在に照らし合わせていくと
「こうなっていくだろう」というルートにはまり抜け出せなくなる
でも「こうなっているとしたら、何が必要で何が不要だろう?」
という視点でデザインすることもできるはずなんですよ
この発想の仕方が私たちの未来をより良いものへとデザインしていく
むしろこの発想でしか、ポジティブにより良い方向にいかないと踏んでます
若い人たちがより新しい発想で挑んでいくのはキヨキヨしい
その過程では「知りすぎないこと」も実は重要なことだと感じる
若い人は私たちが過去の経験によって選択しなかったこと
捨ててしまった選択肢にも、まだ望みをもっている可能性もある
なぜなら、大人たちが選択をした結果が現在の状況であるならば
その捨ててしまった選択肢にのみ注視し、あるいはそこから発想を展開させて
光の射す方へ歩んでいける、デザインしていけるかもしれないからだ
このように若い人にとっては過去や現在を知りすぎなければ
過去の欠片を再度デザインしていくというやり方もみえてくる
大人以上の私たちの世代はどうだろう?
もう不可能かといえばそんなことはない、見えていないだけである
過去や現在までの実体験というアドバンテージがあるではないか
私たち以上の世代がとってきた選択肢にとらわれすぎているだけで
必要以上に自分たちのデザインを美化しすぎているだけではないか?
人間、誰でも上にいけばいくほど誰からも反発をされなくなる
周りもいろんな計算をしながら忖度、おもねる、へつらう…
その社会のあり様の積み重ねのパターンを変えるには
未来からの逆算デザインが最も有効な手段ではないだろうか
羽をもがれてしまったところが本当のスタート
羽をもがれたことに気づかない鳥も飛ぼうともがく
もしかしたら羽はもがれていないかもしれない
空も自由に飛べるかもしれない
未来を悲観する視点から飛ばずに
未来へ飛躍する視点から逆算して飛べばいい
あなたも私も、まだまだ未来のために飛べるはずだ