前回のクレーマー社会のネタを引き続き考える…
クレーマーが顕在化した背景にはどんなカラクリがあるか?
そこには経済成長とともに、よかれと思ってしてきたことが
裏目に出ている感じと、人間が社会において
肯定されることと、否定されることが関係している
人生を歩んでいくなかで、周囲から肯定され続けて育ってきた人間が
社会という荒波に出た途端に、否定されるという現実に直面する
それも思いもよらない理不尽さによって
否定を受け入れて克服した経験のない人間は
自分の非と否を受け止められず、困難と混乱を極める
肯定されたいがために主張はエスカレートし、否定されること自体にも
納得できず、理解ができないのである
と同時に、できない自分に対しても落胆して
しまいには、逃げたくなるのかもしれない
クレームはその現実の理不尽さの発露になっている
「なんかムカつく」が増えすぎる社会は
「なんかムカつく」ように育ってしまった自分と家族の責任である
他人に当たり散らすもんではない
世の中の現実は、人と人との思惑が絡み合うものである
機械のように毎度毎度、正しく丁寧にみんなが機嫌よくやってくれる
「わけがない」
その時点での自分の判断が必ずしも正しいとは限らないし
未来あるこれからの若い人であれば、様々な経験をするまでは
理解に苦しむことも多く、その時点で気づけないことのほうが多い
10年20年やそこらで正しいと思って主張していることが
実はその時点で当人が気づけていない視点が原因だったり
経験値としての少なさゆえの問題、視野の狭さなどで
自分の甘さに気づけていないという可能性だって大いにある
私のような40代の世代からみると、振り返れば10代や20代のころ
正しさを振りかざしたことが、年月と経験ののちに
自分が間違っていたんだな、と気づくような出来事がたくさんある
認識や見通しの甘さ、他人の立場の考慮…できていないことが
たくさんあったのだと反省しきりになるのである
これはしつけや体罰とも共通する視点であったりもする
当時は、同じように自分を否定され、なんでわかってくれないんだ?
という感情でしか受け止めることはできなかった
それでも年月をかけて飲み込み、職道のような食道を通り
働くとは、生きるとは、社会とはなんぞや?と問答しながら
長い時間をかけて消化してようやく、腹落ちするのではないか
私たちより上の世代はこの忍耐力の先に、ある種の共有感覚をもつ
耐えて、苦労して、泣いて笑ってケンカして…
どっこいどっこい生きてる、社会のなかで
そして同じ心の境地にたどり着くような感覚なのかもしれない
そこで初めて、お前も一人前になったなとやさしく声をかけてもらう
同じこころの機微に触れる経験をたどったからこそ、わかりあう瞬間がある
厳しく接する陰には、よかれと思って厳しくするその先に
こういう腹落ちを自分たちと同じように味わうことで
社会の一員として一人前に育ってくれという思いもつまっているのだと思う
この一面はこころのどこかに必ず、あるはずです
話はだいぶ逸れた(笑)、クレームに戻すと
現代は自己肯定感を高めるものばかりが存在し、そこを中心にくすぐり
ビジネスも展開していくが、その甘やかしは本当にプラスになるのか?
私たちはよ~く考えて選択しなければならない
人間である以上は、肯定と否定を繰り返し、それでも受け入れて
受け止めて成長していく人を自分たち自身でつくるべきだ
かっこつけず、かっこわるくてもいい
失敗しても恥ずかしがらなくていい
未完成だって、遠慮しないでいい
それらを笑い飛ばしあえるだけでもいい
これは笑い「飛ばし合える」が肝心
機械に頼らない人間同士のこころの成長こそ
本当のあったか~い社会につながるのではないだろうか