統一地方選挙だそうですが

この選挙権についても持論としては

18歳開放ならば、70歳打ち止めも一考です

投票に行く、投票する環境を整えるのは

時代が進めばある程度整備されてくる

ネット環境を利用してまだまだ便利にはなるだろう



しかし、時代が進んでもあまり変わっていないのが

投票する「意味」「意思」ではないかなと思う

誰々に入れる、応援するというが一般市民レベルでは

その程度の数では動かないし、自己満足で終わってしまう

投票したという型どおりの社会的責任の行使は

あくまでも周囲の目を気にして周辺の社会へ向けた世間体でしかない



候補者たちも数で選ばれるが、厳密に人そのもので評価されていない

数と風評のみでその立候補者の評価を上げ下げして

深く考えて投票していないし、自分たちのプラス要素で評価する

70歳以上の「計算できる」ご老人たち



次の世代のためにするのが選挙ではないのか?



政治家はさぞかし、したり顔でいるだろう

この数の論理を砕く必要性があって、ここへの攻め方については

ある意味で「だましやすい」と票を得る側は考えている



この70歳以上の世代を「政治の道具」から解放させていくほうが

社会が「若く動き始める」のではないか

目にみえない鮮度が生まれ、だまされない世代への説明のレベルを

自ずと高めさせることは言うまでもないだろう

キレイごと並べても結局何いいたいの?ってことばかり

老人たちと同じスタンスでダマせるものではない



そもそも誰かを選んであとは頼むよ、が責任回避である

あまりに主体性と本気度が足りない

制度上仕方ないよ、で済まされ後回しにされてきたが

システム上の効率の悪さは臨界点はすでに超えているのであり

早急な改革が必要だろう、ホントに変えるためには…



高齢化を逆手に取り、あえて退場させる方法をとるのはどうか

市民に意思を持たせ、主体性を高める時代ではないのか

自分たちがデザインする意思を実現させる環境を、雰囲気をつくれたら?



70未満は70未満の社会を主体的にデザインして参加する

と同時に、70以上は70以上の自分たちに直結する課題を

自分たちでデザインしていく「なんらかの権利」を与える



政治家を選ぶための数の論理で、老人たちに耳ざわりのいいことは不要

誰のための未来か?その主体は現役世代なのに?

老人の票の数の論理は未来を担う世代の意思という前では、矛盾する



歩けるかぎり、老人たちの投票率は極めて高い

それは社会への参加意識が染み込んでいる証し

しかし時代に合わせて知識や考えを深めているわけではない

普段は自分の周囲を程よく便利に快適に変化を望まずに生きている

誰を選ぶかの根拠や説明は老人たちには重要じゃないのかもしれない



対して、現役世代たちにとっては仕事や学業や生活と

それにさらにプラスしての政治意識の両立は難しい

参加意識と狙いがあいまいで、候補者の情報も法律でガンジガラメだ



手に取るようにわかる政策をもっと流布して伝えるべきではないか?

つまり国民と政治家双方にとって、何もかもがあいまいにできている

政治家のために、巧妙に仕組まれた複雑なモザイク処理をかけている



この数の論理を逆手にとるならば、数が意思をもつことだ

政治家は票が意思をもつことなんて望んでいない

計算が成り立たなくなるから、国民に意思を持たせないように仕組む

でも、もうダマせる情報管理のできない時代になっているのは自明だ



数を動かすには、ただの数を為す計算のうちに入る70以上の世代を退場させて

数の主権を若返らせること、若返りとともに「意思を数に持たせる」

これが一番政治家が嫌なことだが、一番政治を再建できる方法だろうと思う



だから、投票に行こうなんて問いかけはワタクシは必死で無視する

行為そのものの投票行為という外形だけを

互いに欲しているだけで変わりはしないのだから



さらにいうならばこういうアイデアは未完成でも

詳細でなくても、知識不足だろうが、出していくべきだ

人は完成されたものを欲しがるようになってしまったが

いつまでも完成品を待つ受け身体質では何も変わらないだろう

動くことで感性が刺激され、未完成でも完成に一歩近づく

このことは私たちは忘れてはならないのではないか