機械的な処理では済まされない
ちょっとこじれた存在
それが人間である
人間が機械的に処理するときの快感は
スピーディーな処理、正確な管理で
処理能力を上げていくことだと言えるだろう
処理能力という側面は人間を自他共に機械的に扱う
そんな節操の無さが垣間見える気もする
アレとコレをAにやらせて、その間にBにソレとコッチを教える
スケジュールでも、うまく組み立てることに快感を覚える人は少なくない
素早く、正確に、処理するその向こう側に管理があるのだとすれば
人間は失敗の許されない環境にどんどんと追い込まれていくのを
ただ見守り、従っていくしかないのだろうか
機械は操作を間違えなければ、いつも正確、迅速
今日は気が乗らないからパフォーマンス低下
なんて「人間らしい可愛らしさ」は持ち合わせていない
機械を操る側の人間は、操っているようで逆に
機械に操られている感覚になかなか気づけないでいる
そのうち機械になったかのごとく動く快感に
身を委ねるようになってしまう
働き方改革の「逆の肝」は人間らしさへのグレードダウンだ
機械に吸い寄せられ、知らず知らず吸い取られてしまう
人間らしさを無視し続けた技術の進歩や向上の先に
居心地の悪さがあるとは思わないのだろうか
人間の手動によるものから機械を介した主導権に変わって
生産性が向上したと錯覚させてしまうが、便利になったからこそ
よりタスクを増加し、加速させていくことによって
何か事あるごとに、人の温かみが薄れていくような気がする
本来の働く目的が生活や家庭のためという人間的な価値観から
物の性質や品質、大量生産、大量消費のための「人の機械化」にシフトして
感情をないがしろにされてきた分、ストレスも加速度がより増してきた
働き方改革も「上から言われたとおり」やると必ず失敗する
それをわかっていながら、現場でやらせようとしてヒンシュクを買う
社労士が専門家たる振る舞いをすればするほど
失敗へ一歩一歩、間違いなく近づいていくだけだろう
だったらどうすればいいんだ?教えてくれよって専門家は
同じように「人の機械化」で動くしかできないであろうと思う
間違いのないようにやることは、ともすればただの消極策
働くその先に人間を見てるようで見ていない現実がそこにある
どんなに尻尾を振っても、相手に尻尾を振られても
今のままでは双方ともに生産性は薄いまま終わるだろう
正しさと人のこころは相反することを
専門家たる社労士は肝に銘じなければならないのではないか