しつけについていろいろと子どものころを想像して書いてみる

もちろんいまと違って子ども時分には

今より理解力はないということも加味しながら…



まず、悪いことしました、親や先生に怒られました

このシチュエーションにおいて痛みを感じさせるしつけか

言葉で諭すしつけか、どちらが本当に有効だろうか



世論や風潮で0か100かになってしまってすべてダメだと信じ

何が正しくて、何が正しくないかに意識を引っ張られがちになる

ここはあなたも私も、自分の子どものころに戻って想像してみよう

顔も昔の可愛かったころの、あの愛嬌のある顔つきです(笑)

それぞれに思い思いの先生や親たちがおぼろげに感じられるはずです



さぁ、どうでしょう?

自分が退行して子ども時代に意識や感覚を寄せてみたとして

あの頃、ことばで諭されて反省する可能性はあっただろうか

はいはい、って返事しながら目を盗んで懲りずに繰り返してしまうのでは?

推測してみてください、おそらくはほとんどの人は苦笑いするでしょう



痛みを感じたほうが何かこころにポジティブに作用してる気がします

オトナになるにつれて、当時の先生や親の気持ちを察して

愛情がブレンドされていた行為だったと気づけるのではないか

気づくまでにはどうしても時間が必要になりますよね

客観的な視点で見られるようになるには時間の経過が大事ですから



私のような40代ならば子ども時代の先生に恨みがあるなんてのは

大概の場合はないはずです、例外は話が進まなくなるので抜きにして…

オトナ(親や先生)達は、痛みを感じた子自身が

悪かったと気づいて、自分の至らなかったことを理解することを知っている

そして、そのしつけの一環の行為がその歯止めになることを知っている

実際にオトナ自身も子どもの頃に、そうして育ったし、痛みを感じていなければ

歯止めになっていたか疑わしいと実感しているからでしょう



よく考えればわかりますが「話せばわかる」は相手次第

話すことや説明することが難しい問題もあるし

それを理解できるように子どもに説明して理解させることはもっと難しい



言葉で果たして子どもの「感情のままの暴走」は止まるか?

というか、子どもに言葉で理解させるには難しすぎるでしょう

自分も理解できなかったであろうことに、どうして自分の子ならと

理解できるのではないかと都合よく考えるのか



しちゃダメとなると、絶対にしてはならないとなるのは

人間的にも奥行きがなく、遊びのない面白みに欠ける人だなと感じる

日本人には針が目いっぱい振れたら振れっぱなしになりがちな心理がある

したらダメ、に対して精神的に依存して逃げの意識がみえる



子どもにストレスを与えず、否定せず願いを叶えてあげてきた生活

つまり現代の便利な社会は、愛情あふれる環境で育ったとはいえない

あまりにストレスフリーで生活しすぎではないのか

そういう子が得てして社会で挫折を味わうと耐性が低いため

周囲に自分の肯定ばかりを求め、話を聞けない人間に育ってしまっている



要はバランスである、プラスもマイナスも経験させるバランス

このバランス感覚が最も難しいし、各々に万能な正解はない

正解を用意する人生、生活環境に囲まれていると

このバランス感覚は確実に失われてしまう気がする



親がスマホやゲームをして遊んで熱中してるのを子どもがみてると

親が言う、勉強しなさいも説得力がまったくない

自分も遊ぶけど、という自分の許しと子どものしつけへの許しは違う



私たち世代の親はゲームが世になかったから、子はゲーム機すら

なかなか買ってもらえなかったが、チラシを食い入るように見つめながら

毎回、ガマンガマン…ダメですそんなものは!と毎度撃沈する

この経験がガマンを味わうトレーニングになっている



何年もガマンにガマンして、毎年交渉の場を持ってお願いし続ける(笑)

そしてようやく買ってもらえたときのうれしさや喜びは

すぐ買ってもらえる喜びの比ではない

これだって忍耐をおぼえるトレーニングになっていたのである

ガマンしてガマンして、粘り強くやり続けると願いが叶うこともある

という成功体験の一環になっているのではないか



子どもに「機械を利用して」接するようなオトナ子どものままでは

いつまでたっても背中で語れる本当のオトナになれないのでは?

知ったかぶりの情報に頼らず、自分の言葉で含蓄ある話ができれば

少しは子どもたちの未来に役立てるのではないだろうか