「まぁいいか、しょうがないよ」の変遷を考えてみる

昔を思い出してほしいのだが、年齢によって違いもあるが

親に言われたこと、しつけや教育のための「あるコトないコト」



いろいろ真実もウソもあると思うがオトナになってどう捉え

自身が親になった場合、子にどの程度で伝えているんだろうか

同じスタンスの思いや感じ方を、我が子にも与えているだろうか



子どもの頃に、親に言われたしつけや教育の一環の

「〇〇しちゃダメだよ、〇〇になっちゃうよ」や

「〇〇しないと、〇〇になれないよ」などをイメージしてほしい



子どもの頃に自分が言われた「嫌なこと」「怖かったこと」などは

大きくなってからどのように捉えているかでだいぶ異なる

A「あの頃は親にまんまとダマされた、自分の子には言うまい」

B「あの頃、親が言ってくれたことが、今の自分に役立ってたんだな」



この選択でどちらを選んで人生をおくっているだろうか?

Aをすることには、子どもが嫌がると感じることや痛い、苦しい

悲しいことなどがたくさん含まれている場合が多いため



自分の子には「同じ思いをさせたくない」が勝ってしまい

「まぁいいか、しょうがないよ」が悪い意味ではたらいてしまう

結果、我が子に同じ経験をさせてあげなかったことになる



ガマンを覚えさせることができなかったり

やってはいけないことをうまく叱れずに許してしまったり

欲しいものをガマンさせず買い与えてしまったり…

この積み重ねが結構、見過ごしがちな視点として

社会の変容と大きく関わっているような気がするのだ



同じような体験を経ていくことで

自分の親と自分との共通の体験から

「共感ポイントを共有する」ことが

自分の親と自分は、できていたのではないか

同じ経験から共感するポイントがおぼろげにみえるはずだ



Bは親となった自分がかつて体験したその親との共感がある

その意味やその後の人生への影響を身をもって知ることができている

「この共感からの共有」があるから、知っているから

だからこそあえて、その厳しい言葉の意味や態度を

その自分の子のために取ることができるのではないだろうか



誰だって、自分の子はかわいいだろう

しかしあえて、心を鬼にしてでも同じ嫌なことやツライことを

通して成長を見守る姿勢も大事なことなのではないか

その通過儀礼のような体験を親から子へ、子から孫へと

つないでいくことを怠ってきたのではないだろうか



Aでつないできた社会とBでつないできた社会を想像して

比較してみるとわかると思うが、何かが欠けてしまった現代人の

見直すべきヒントがここに隠されているのではないだろうか



技術や利便性の向上や、生活環境での便利さを覚えると

どうしてもAを選択してしまいがちだ

いまのスマホ、かつてのゲーム機などが象徴的だ

「ゲームもスマホも、親がやってるから子もやりたくなる」



「まぁいいか、しょうがないよ」で逃げてきただろうし

親だけが楽しいもの、便利なものを享受して子どもにはさせない

傍からみると虐待しているように自身も感じてしまうのかもしれない



しかし、親がやっているから子もやるのだとすれば

親が子どものために自分もあえてガマンすると

「お父さんお母さんがガマンしてるんだから、ガマンしなさい」

と胸を張って言えるはずである

全部をそうすべきだとは言えないが、どこかでこういう視点で

対処すべき瞬間がまだまだ私たちにはあると感じるのだが

どうでしょうか