自分がおもしろいと思うものを見つけておもしろがる

自分はおもしろいと思わないものについても

おもしろいところを見つけて、おもしろがる

どちらの手段によっても、おもしろがることは可能である



つまり、おもしろいと感じる気持ちは表裏一体であり

自分次第で、自主性をもっておもしろがることができれば

おもしろいことにつなげていくことも可能ではないか



おもしろがることを見つけることによって

新しい楽しみが広がり、おもしろさを望みながら期待することによって

日々を生きる張りや活力につなげられるのではないか



何事も入口は楽しいこと、おもしろいことから入るほうがよい

笑いがあることのほうが、おもしろいことのほうが

物事をポジティブに捉えられるし、楽しいと感じるからだ

アレをしてはダメ、これもしてはダメでは自分にも相手にも

ストレスばかりで、心理的にも不健康極まりないのではないのか



「与えられて楽しむのではなく、見つけて楽しむことを目指す」

この楽しいことを見つける仕掛けがアウトプットにはあるのではないか

楽しむことにお金が必要になって久しい世の中である

楽しいことを「提供される」私たちは、「与えられて」楽しんでいる



よく考えて、思い出してみてください

私たちはむかし、お金を必要としないで楽しむことが「できていた」

それがいつしかビジネスの場に引きずり込まれてしまったのではないか

スポーツを楽しむにも大人になればお金を払って場所と時間を買う構図

お金を払わされて、楽しむことを提供されているのと同じです



「老人」という名で断定される社会的な評価のもとでは

お年寄りには楽しむことを探す場やキッカケが

社会的にも少なくなり、選択肢が限られるようになってくる



すると本人は、自分でも無意識のうちに老人という枠を意識して生きていく

その老人という架空の枠に自分自身を閉じ込めてしまってはいないか

枠の中で自分を捉えた結末である介護や病気への不安を先行させ

誘導された不安にのみ心を砕いて、お金を支出させられるようになってしまう

社会のもつ、お年寄りへの無言の圧力がこうした形で強まっていって

社会的にも「お荷物扱い」になっていくのだろうと推測する



いっそのこと、発想を変えてみてはどうか

それがおもしろがることである

老いることをおもしろがることで

楽しめる引き出しはみつかるはずです



もちろん年齢を問わず若い人も中年も含めて

遠い昔の記憶にある自分たちでみつけていた遊びの喜びは

まだこころのどこかに残っているのではないでしょうか



ワタクシも同じワードを繰り返したり韻をふんだりの言葉遊びを

読む人にやさしくせずに、おもしろがっていますよ(笑)