前回の気が済むまでやることについてさらなる展開を
本来は気が済まないことは生きていれば多々あるもの
それをガマンしたり、別のことで気を紛らわしたりしながら
受け流していくのが世渡りの術であった
ところが誰かが声を上げると、自分も自分もと呼応して
大きくなっていく、雪だるま式に大きくなっていく
大きくなって手に負えなくなり投げっぱなしになる
見えなかったものが、見ないように行き着いていたものが
可視化されてしまうと、私たちも手立てがなくなってくる
なぜならその解決方法がまだ確立されていないためだ
しかし声を上げたことで同調してくれた人々との
見えない信頼のような親近感のようなものが生まれる
そこをこころの拠りどころに求めてしまう
すると正義を振りかざして相手を糾弾することが快感に変わる
正しいことをしているという大義名分に駆られて気持ちも大きくなる
匿名性が高いとより攻撃的に発散して気を紛らわす
ここまではむかしと構図は同じだが、違うのは
見ないふりできないほど、可視化されて情報化されて突き付けられること
むかしもこういう声はあったが、風化されたり上がってこなかったりで
なんとなく地ならしされて吸収されていたのだろう
雨風に濡れて溶け始めるような、むかしの空き地のエロ本のごとく
「まぁこんなこともあるけどな、しかたないよいちいち・・・」
流してそのまま忘れるほうがうまく回ることをみんな知っていた
むかしのエロ本もいまや形態すら変えて
デジタル化の波にさらわれて
消えなくなったし、より鮮明かされてしまったが(笑)
人々は気が済まないまま、それを抱えて捨てられず
こころに鬼が棲むまで抱え続けるようになってしまったのだ
次第に鬼は棲み続けながらエネルギーを増して「凄み」を増していく
いつのまにか逃がしきれないストレスを抱え、逃がし方を知らない若い人と
逃がし方をかろうじて知ってる中年以降の世代に大きな溝ができる
いや、もしかしたら逃がし方を知っていた世代も
忘れてしまっているかもしれない
忘れているだけならまだ、思い出す可能性はあるが
鬼に食われてしまってたらもう取り返しがつかないのかもしれない