前回は人や物の「古典化」をネタにして書きましたが
引き続き同じネタで書いてみます
前回書いたように30年、40年、50年の時を経て
当時と違った新しい目で見られるからこそ、評価が変わる
というものが「古典化」ですが
さぁ、自国開催でのオリンピックがありますね
前回1964年ということで、十分に古典化の資格ありです
両方経験できそうな人はどんな気持ちの違いがあるのか
これが古典化を探るうえでものすごく興味深いことです
オリンピックの在り方、新鮮度、社会全体の高揚感など
当時と比較してもかなり違いがあるような気がします
やはり当時は、夢も希望も社会もオリンピックに「乗っかって」
流れをつくり出していた感があるのではないか
なんでもそろった2020はそれほどの高揚感は子供以外には無さそう
満たされるとダメになりますね~人間ってのは
商業化されすぎ、参加者多すぎ、注目度高すぎ、期待しすぎ
いろんな「すぎる」ことが増えました
前回のオリンピックを味わった人たち、あるいは関わって
つくり上げていった人たちの高揚感は想像もつかない
思っている以上に、あれもこれもない、理解すらされてない世の中です
それでもとてつもない大きな印象を自分のこころに残せたことは
他人ながら、いい人生送ってるなぁと羨ましいかぎりです
「なんだかわからないけど」楽しみ、すごい、ワクワクドキドキ
この「なんだかわからないけど」がいいんでしょうね、人間にとってはね
いまの時代は「なんだかわかるから」つまらなく感じてしまうんですよ