外山滋比古流にいえば、人物や物事がその30年の経過によって
「古典化」すると違った新しい目で見つめなおすことになる
すると、当時は批判の的であった人や物が再評価されるようだ
夏目漱石のように、当初は批判されたものが時を経て見直されたような
そういうイメージのものをさす
新しい目で見つめなおす、この必要性の有無については
当時の大衆の受け手である人たちがその人物や物事を
どれだけ当人の思いに近いかたちで伝わり、評価できていたか
ということのあらわれでもある
伝える側の意図は100%そのままコピーして伝わることはないという
Aというものが、A´としてあるいはAっぽいものとして
ニュアンスが異なる伝わり方をしたり、全部が伝わりきらない
伝える側の気持ちを、受け手は全部同じには受け止めてもらえない
そういうことなのである
では、古典化する前に私たちは送り手である伝える側の思いに
より近いかたちで、たどり着けないのであろうか?
複眼思考で違う視点で読み取ろうとする工夫をしていれば
伝える側にもう少し近づけたのではないか?
考えてみると、受け手は自分のものさしで物事を見て評価をしている
その自分の基準で、当時の自分自身の知見を疑うことなく
送り手の思いを自分のフィルターを通して理解して受け止めている
これでは自然と乖離が生まれるのも無理はないといえる
では、どうすれば送り手の100%ではないまでも、近いところまで
雑味をなく取り入れることができるのだろうか
自分の基準とするフィルターを外せばいい、といえば極論すぎるが
それは簡単なことではないし、私たちは機械ではない
私たちは、コミュニケーションによって伝わることとは
相手の描くイメージと重なる部分を、自分のなかに描くこと
「共感する」ことである、となんとなく理解している
その共感を経て、共有へとつながっていく
伝わる過程において、私たちは理解をもう一歩進めようと努力しているか?
もっとわかりやすく説明してくれないとわからないよ、と
シャッターを下ろすのは誰でも簡単にできることだ
理解へのもう一歩を踏み出そうとしない怠慢を
相手の説明不足のせいにしてはいないだろうか?
送り手も伝わるようにと努力して、より簡潔に論点を伝えようとする
そういう腐心をして、なんとか伝えようとしてくれる
もしかしたら簡潔にしようとするあまり、大事なニュアンスが
削り取られてしまっているかもしれない
伝えたいことは、たくさんあるのだ
正しい表現やマナーだとか、正しい文章だとか体裁は
この際、どうだっていいとさえ自分は考えている
これに対して受け手は送り手のイメージや意図に近づくために
歩み寄ってみることを放棄してしまってはいないか
もう一段、上のレベルにコミュニケーションを上げるためには
送り手は惜しみなくイメージの欠片を散り散りの文章であっても伝えきること
受け手はその欠片を少しでもイメージが重なるように組み立てる
パズルのような作業が必要なのかもしれない
パズルをつくったその先に、イメージの共感があり
共有へとつながっていくのだろう
テクノロジーが進歩して頭の中すらスキャンして相手にコピーする
そんな時代がくるかもしれない
しかし、そんなんでおもしろいか?と感じるのだ
もう少し人間らしく、自分は機械に抵抗してみたい
私たちは必ずAIに嫉妬する時期がくる
でもそのとき自分が何もできないのでは
悔しいではないか(笑)